東山紀之さんが語るMJ | HERO

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私の尊敬するMichael Jackson、Audrey Hepburn、イチロー選手、中田英寿氏について熱~く綴っていきます。

 東山紀之さんの自伝書『カワサキキッド』より


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『マイケルの死』


 マイケル・ジャクソンが亡くなった。
 僕の青春が突然いなくなった。
 50歳の死は早すぎると言われる。しかし、僕は、彼が天寿をまっとうしたと思いたい。マイケルはアーティストとして全てをやり尽くしたからだ。人はどのくらい生きたかではなく、どう生きたかだ。
 13歳のときジャニーズの合宿所で、当時は日本ではあまり知られていないマイケルをビデオで見て、僕の人生は変わった。
 電撃が脳天を走った。男が踊るなんて恥ずかしいと思っていた僕がマイケルを真似して踊り始めた。
 これほど楽しく踊る人を見たことはない。これほど美しいラブソングも聴いたことがない。
 肌の色も性別も年齢も関係なく、理屈抜きで、老若男女の血を騒がせる。これがマイケルの偉大さである。
 デビュー前、16歳のころ、僕ら少年隊はジャニーさんに、ザ・ジャクソンズの公演を見に、モントリオールまで連れて行かれた。それだけを見るための1泊3日の旅である。
 初めて見るマイケルのステージだ。
 オープニングから度肝を抜かれた。ギリシャ神話をモチーフにし、勇者が岩に刺さった剣を抜くと眩い光のもと、ジャクソン兄弟が飛び出した。豪快なダンスが始まる。なかでもマイケルの踊りと歌は別格だった。5回転ターンも軽々とこなしていた。
 彼のすごさは総合的な表現力にある。作詞、作曲、振り付け、歌、ダンスに加え、楽器演奏も見事だった。エンターテインメントのあらゆる表現を、だれも予想できない体の動きと心とで、オーケストラを奏でるかのように見せた究極のプロだ。ナレーションもうまかった。
 数年後、僕らはニューヨークで大ヒット作「スリラー」「今夜はビート・イット」の振付師であるマイケル・ピータースのダンスレッスンを受ける機会を得る。毎日8時間、生バンドのもと即興の振り付けを踊るという、倒れるほどきつい練習が一週間続いた。が、マイケル・ジャクソンの一部を吸収しているのだと思うと、力がわいた。のちに「PLAYZONE」では、ビータースをはじめ何人かのマイケルの振付師に振付けてもらった。
 彼らスタッフから聞くマイケル・ジャクソンの姿は、とにかく練習熱心でいつも働いていて、どんなに練習しても「もう一回」と言ってくるという。「ヒガシと似てるよ」と言われたときは、お世辞でも嬉しかった。


 1987年、僕はソロ初来日したマイケルと宿泊中のホテルで始めて会った。
 彼へのプレゼントに、メタルの飾りの付いたピカピカのジャケットを特注で用意した。こんな高価な贈り物をするのは初めてだが、マイケルのためなら平気だった。僕自身もインパクトを与えたいと、黒ピカの上着と靴という格好だった。

 マイケルは真っ赤なシャツで、「ハーイ!」と、笑顔でバスルームから手を拭きながら出てきた。緊張で顔がこわばる僕に優しく、「その靴、素敵だね」と言った。足のサイズを聞くと、僕より1センチ大きい27,5センチという。僕はすぐに同じ靴を作って贈ることにした。
 細身で華奢なイメージがあるが、第一印象はとにかく大きかった。
 178センチの僕と比べても、184センチくらいはあったのではないか。十頭身でスタイル抜群。手足も大きかった。幼いときから鍛錬を積まないと、あんな体にならない。
 数日後、東京ディズニーランドでも会った。彼が主演したアトラクションを見るためだ。僕たちの対面の様子が掲載された雑誌を、僕は今も大事にもっている。のちにマイケルもその雑誌を自室に保管してくれていたとわかり、感激した。
 翌年、グラミー賞授賞式とコンサートを見にニューヨークへ行き、終演後、彼の泊まるホテルを訪ねた。彼は3フロアを貸し切り、最上階には稽古用ダンスホールも作っていた。
 驚いたことに、さっきステージであれほどハードなダンスを披露したばかりというのに、また汗びっしょりになってレッスンをしている。「よく来たね!おぼえているよ」と、稽古中に笑顔で迎えたマイケルは靴下姿だった。見ると、片方が裏返しではないか。そんな事お構いなしと言った様子に、なんだかホッとした。
 ベジタリアンらしく、テーブルには必ずナッツが置かれていた。マイケルは「今度、ロスの家にぜひ遊びに来てよ」と誘ってくれた。
 最後に会ったのは96年、来日公演で宿泊中のホテルだった。「ビリー・ジーン」を歌うときに被る黒い帽子をプレゼントしてくれた。僕の一生の宝物である。


 帽子といえば、マイケルの自宅のどの部屋にも化粧台が置かれ、帽子が3つ掛かっていると、スタッフから聞いたことがある。隣のネバーランドを訪ねた子どもたちがいつ何時自宅を訪ねてきても、“マイケル・ジャクソン”として対応できるようにしていたという。いかに子ども好きの彼らしい逸話だ。
 性的虐待疑惑は大きく報道されても、マイケルがネバーランドに大勢の病気や障害をもつ子どもたちを招待し、励まし続けたことはあまり報じられなかった。
 僕はマイケルの苦悩の深さを想像する。そしてこの年になると、その一部が僕にもわかる。若いときと違い、体力が衰えるなか、自分が表現したい精神と肉体のバランスをとるのがいかに難しいか、を。ましてや彼の場合、どこへ行っても話題は、整形や借金などのスキャンダルばかり。自分のしたいエンターテインメントの批評ではない。
 あんなに楽しそうに歌っていたマイケルの笑顔が消えていった。幼いときから歌い、ニキビに悩む年齢になったときも「子どものころはかわいかったのに」と言われた。ダンスの名手として華々しく再デビューを果たすと、今度は利権をめぐり凄まじい争奪戦が始まる。そしてスキャンダルとバッシング。どんなに売れようが、人種差別は根深く存在する。とろけるようなラブソングを歌っていたマイケルは、いつしか社会派の歌ばかり歌うようになった。彼ほど甘味でセクシーなラブソングを歌う人はいなかったのに。
 僕は「スリラー」前の黒人音楽の要素が残るアルバム「オフ・ザ・ウォール」が最も好きだ。なかでも「今夜はドント・ストップ」は僕の“勝負曲”である。舞台に向かうとき、必ず聴くことにしている。それを聴くと僕の血は騒ぎ出す。
 オバマ大統領が誕生するずっと前から「チェンジ」を歌詞に込めていたのもマイケルだった。肌の色も国境も超え、ただ心に感じることがいかに大切かを全世界に知らせた。彼の影響を受けた人々が彼の遺したものを礎にして、これからどんなアートを花開かせるか。
 マイケルが死んでも、僕は彼を感じ続ける。
 マイケルも願っているだろう。
 「ドント・ストップ」と。



                ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 東山紀之さんの自伝書「カワサキキッド」には、あまり知られていない東山さんの生い立ち、借金取りから逃げる生活、両親の離婚、幼少期に受けた再婚相手の父親からの虐待の話など、辛い過去も赤裸々に書いてあり、とても驚きました。
 ジャニーさんとの出会い、ダンスや演技に対する思い、憧れの人である王貞治氏とブルース・リーとマイケル・ジャクソンへの熱い思い、長年の友人や一時期同居していたTOKIOのメンバーに至るまで、面白い内容ばかりで読んでいて飽きません。
 何事も器用にこなしていそうなイメージの東山さんですが、「人は努力によって報われる」という言葉を信じて鍛錬を積み、自らの努力で道を切り開いてきたというのが本を読んでわかりました。決して恵まれた環境で育ったとはいえないけれど、友人、在日朝鮮人である近所の人たちの温かさに恵まれて育ったからこそ、画面を通しても伝わってくる優しいオーラと芯の強さがあるのではないかと思いました。辛さや痛みを知っている分、人には平等に優しくなれるのでしょうね。
 この本を読んで、ますます東山さんのファンになりました。