先週の七夕の日から一斉にセミが鳴き出した


梅雨は明けたな~と思ってたら
今度は追いかけるようにして
夕方になるとヒグラシが鳴き出した


あ~もう夏も終わりか~・・・って

これからだろ夏本番っ!


前回の記事を読んだお客さんや友達が
心配してカットに来てくれたり
顔を出しに来てくれた


一体どうしたの?何があったの?って

あの記事は何だかかえって心配かけちゃったかな???



今までこの数年津留イズムで邁進してきた私


いつしか私にとって津留イズムがすべてで
それは盲信に近い感覚だったかもしれない


でもミュルア流に湾曲して間違った
受け取り方をしてしまっていたみたいだ


だけど今回をっさんからのコメントが
トリガーとなって
私の中で何かがはじけた瞬間だった


私のクレイジーな恥部を見せてしまう事になるから
シェアするのにためらったんだけど
勇気を持って
簡単にぶっちゃけて言うと


極端な例だけど
例えば目の前に溺れてる人がいても
それはその人の内面の投影での現象だから
溺れててもその人の自己責任だからしょうがない
もしくはそういうシナリオだからしょうがない
みたいな感覚に
陥りそうになっていた


これじゃまるでカルト集団のオ●ムのポアになっちゃうΣ(゚д゚;)


それって人間として最低、失格だろう


ずっと
鏡の法則でもおなじみの
「外側の現象は自分の内側の投影」
とするロジックに納得しつつも
なんとな~く矛盾と限界を感じていた私


すべてはその人の自己責任というところに
帰結してしまうニュアンスもどうなんだろ、と


確かにそれも一側面はあるにせよ
それだけで話が済んじゃうほど
単純に割り切れるものでもない



でも頑なに「外側=内面」のロジックを
信じ込もうと必死だった私


このロジックは視座を広げて
内省を促すメソッドには有効なツールだけど

私みたいに行き過ぎて
すべてをその理論で当てはめようとしてしまって
人の心の痛みや悲しみに対して無配慮で
無頓着になってしまっていたような気がする
(私くらいのもんだろうけど。。。(;°皿°)


それがをっさんの言う「コントロールされた思考」
なんだろう


思考ですべてを判断、解決、処理してしまうと
感情や感覚は置き去りにしてしまう危険性もあるだろうし
肉体をもって行動するというこの3次元の現実との間に
ギャップができてしまいそう


外側の現象は内面のの投影という
一側面も確かにあるけど
それだけがすべてではないだろうし
それだけが正しいというものでもないんだろう


じゃあ自分の内側を変えれば
溺れてる人が助かると言って
なんかのアファメーション唱えてたら
どんどんその人は流されていっちゃうわけで


結局それって他人事としか見てないような気がする


それよりもその時やれることを精一杯やって
最善を尽くす努力があって然るべきんなんだろう


だからスピって
耳障りのいい言葉で分かった様な気になって
でも実は困難を避けて
現実から逃避してしまう危険性もあるかもしれないな~


そんな偏った自分の視点に気付けた事が大きい


それはまるで思考のRPGゲームに
没頭していたような感覚から目が覚めた感じ


ゲーセンでRPGの画面に夢中になってた私の後ろで
家族がずっと私の振り向くのを待っててくれた


人が生きるってことは
いつも楽しいことばかりじゃないし
悲しいことや悔しいことや
辛いこともあるわけで

逃げずに向き合っていく中で
自分や相手や他者に対して
その痛みや悲しみに寄り添い
そしてそれらを乗り越えて

また喜びをともに分かち合い
そんな触れ合いや関わりの中から
いろんな学びがあるんだろう


もちろん津留イズムの想念観察や
感情やブロックの浄化方法など
たくさんの有効なメソッドを手に入れたのは
素晴らしい財産だ


でもせっかくの素晴らしい教えやツールも
使う人によっては毒にも薬にもなってしまう


だからそれらを
この3次元世界で
上手にバランスよく活用して
肉体があるがゆえの体験をしっかりやっていこうと
改めて襟を正し
足に地をつけた次第


どうして人は生きるのか
人はどこから来てどこへ向かうのか


高校生の時に衝撃的にやって来たこの根源的な問いの答えを
ずっと探してきた私だけど

今回のことで大きな過ちにも気付いた


この問いって
自分はいつも生きてるのが当たり前っていう
前提での問いだった

でもそれこそが根源的な過ちで


この
今自分は生きてるってことは
全然当たり前なことなんかじゃなかったって事に
ちょっとだけ気付けた


誰もがオギャーと生まれてしまった以上
自分の意思(顕在意識)とは関係なく
必ず肉体を脱ぐ瞬間は来るだろうし

それがいつになるのかは誰にもわからない


次の瞬間なのか
明日なのか
数年後なのか


その日を怯えながら暮らす必要はまったくナンセンスだし
かえって逆効果だけど

その日が来るまでの
この肉体という乗り物を
お借りしている間は
与えられたこの生を
真摯に生きたいと思うようになった


それはひとつにAKIRAに出会ったこともきっかけとしてあるけど
ミクシィで知り合った人たちや
AKIRAとつながるいろんな人たちや
かっこちゃんや友人の宮ぷーの生きる姿が
私の内側を大きく揺さぶっていった



相手は私の内側の投影でっていうのも
それは間違うと
バーチャルな世界観だけになってしまうけど
実際その相手は私の目の前にいて
手を触れれば温かくて
柔らかくて優しい眼差しを投げかけてくれる


まずはそんな皮膚と皮膚の触れ合いを通してこそ
この肉体体験の醍醐味があるんだろうな


バーチャルな思想観にたっぷり浸っていた
今までの時間を取り戻すかのように
今はすべての体験が新鮮だ


雲の流れ
風の匂い
水の冷たさ
葉っぱの瑞々しさ

そして
人と人との触れ合い

時には腹が立つこともあるし
凹むこともある

でも誰かからちょっとした気遣いや
さりげない思いやりを
分けてもらったり

それから毎日のべリースペシャルワンパターンな
掃除、洗濯、炊事に洗い物


どの瞬間も有難い


生きてるから体験できることばかり


生きてるから
泣いたり笑ったり
ケンカしたり
仲直りしたり
困ったり
感動したり
心が動くんだ


困難や苦悩や葛藤や・・・

生きてるからこそそれらも体験できる


なんてすごい事なんだろう


今生きてるって
当たり前じゃないんだなぁ~~~


それはいろんな人たちに支えられて
いろんな存在に守られて
今に存在させてもらってる


今無事に呼吸できてるってことの
この奇跡!!!


この原点に立ってしまったら
内側から静かな静謐が訪れ
大いなる力が満ち溢れてくるよ


もうね有難いって言葉しか出てこない


そしてその事に今まで気付かなかった事が申し訳ない




問題があったら
それを問題と認識しなければ
問題は問題として成り立たなくなる
という内面へ向けたスピ的アプローチもありだろうし


その問題を乗り越えていくべく
努力をしたり工夫したりという
3次元的な外側へのアプローチも魅力的な生き方だ


両方を兼ね備えたバランスが大事なんだろうな



今までは思考の中だけで起承転結を済ましてたから
傲慢で尊大なエゴがますます暴走するばかりだった


でももう思考RPGゲームは卒業しま~す


そしてさりげない何の変哲もない
毎日の日常の中で
肉体や人との関わりを通して
これまでのエッセンスを
あとは実践で活かしていけるといいな


目の前の人や現象に
どれだけ心を寄せて真摯に生きていけるか


口で言うより難しいけどΣ(~∀~||;)

そしてまだまだ生きるってこと分かってないけど


七夕の夜
仕事で北海道に行ってる彦星のパパ(笑)にメールした


「私はパパと結婚したつもりでいたけど
この数年間は津留さんと結婚してたみたいだった

いつも津留さんの言葉を探して
津留さんの解釈で生きていた

自分を津留さんに明け渡していたみたいだよ

もうこれからは自分自身に戻ろうと思う


きっとパパはずっと不安だったよね
今までごめんなさい 許してね

これからまたいい夫婦になるように
がんばっていこう」


もちろん北海道から戻ったパパとは
口先が乾く間もなく
すぐにいつものようにケンカしたけど
すぐ元に戻って笑い合う


また新たな家族の第2幕の幕が上がったみたいだよ


いろんな思想や信条も
握り締めることなく
ちょっと緩めて
時には手放してみるのも必要だわ


譲れない信念や
自分の体験すら疑ってみるのもいい


また新しい何かを発見できるかもしれないし


それらの信念に縛られちゃったら本末転倒だもんね


でもこの体験は津留さんに出会わなければ不可能だった

だから津留さんには感謝の言葉しかない

津留さんと出会えてよかった


そして津留さんのいつもの口癖を思い出す

『どうぞ私の言葉を信じないでください』


そして私は茨城の中心でこう叫ぶ

『私は今リアルに生きてるぅ~~~ヽ(゜▽、゜)ノ』



尾崎 豊 / 卒業