幼少期.6 【コンクールに初挑戦】 | 舞踊家 菊地尚子のブログ

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つれづれつらつら。

東京に戻ってきてからの私は、
学校でも昔の友達が沢山いたのでノビノビし、学級委員に立候補したり、クラブ活動が始まる時期になると創作ダンスクラブなど有志を募って立ち上げ、とても充実していました。

バレエでも新しいお友達もでき、これまた上手な人がいることを心密かに喜んでおりました。
しかし東京スタジオは高崎に比べると、
子供の人数がかなり少なかった様に記憶しています。

そんな小3のある日に、北井先生からコンクールに出てみませんか?とのお誘いを受けました。
どうやら、一つ年上の上手なお姉さん2人が参加することになったので、ついでにと私にもお声がかかったのだと思います。笑

なんの迷いもなくやる決心をしました。

ただ、ただでさえ怖い北井先生はコンクールになるともっと怖いであろうことは想像できましたので、私の中で「絶対に先生の前では泣かない」という決まりを作りました。


3月の東京新聞主催のコンクールに参加していくのですが、
北井先生からも最初に「このコンクールは本当に狭き門だから、簡単に受かるなんて思わないように」と釘をさされ、そして恐ろしいマンツーマンの振付が開始されました。

通常の稽古とは別の曜日に時間をとっていただき、振付が始まります。
先生と一対一という状況自体が初めてであり、ものすごい緊張が走りました。

先生は創るのがとても早くどんどん創っていくのを、私はどんどん覚えなければなりません。
しかし、私はものの見事に次から次へと振りを忘れていきました。
私の記憶力の器はとんでもなく小さかったようで、ちょっと前の振りがなんだったか、新しい振りが入ると思い出せないのです。。。
音もない中で振付作業は行われるので、より覚えづらかったのかもしれません。

そして、「じゃあ20分後に見にくるから、練習しときなさい。」と言ってスタジオを後にする北井先生。

私は本当に真っ青になりました。
先生が上の自宅から戻ってくるのが、恐ろしくて恐ろしくてしょうがありませんでした。

どうしても思い出せないまま時間は過ぎ、先生が戻ってきて私は、「先生どうしても思い出せません。この後なんだったでしょうか。」と勇気を振り絞り伝えました。

先生は一瞬でぐわっと怖い形相になり「尚ちゃんは物覚えが悪い!」と怒られ、覚えが悪い烙印をその日から押されることとなりました。
そして先生が用済みのカレンダーをやぶいてくれて、「すぐにメモりなさい!!」と振付が進む度に言われる様になりました。

「そうか、私は覚えが悪いんだな。」というのが初めて分かり、コンプレックスになったと同時に、「なんとかせねばならない」という気持ちが強く芽生え、振付を早く覚えるということが一つの目標にもなった様に思います。
そののちそんなに苦労せずとも振付を覚えられる様になっていったので、何回も何年も繰り返すことにより、そのスキルもおのずと身についたのでしょう。

そんなコンクールの初挑戦は、当たり前の様に予選落ちする訳ですが、
私は結果発表こそ堪えましたが、家に帰ってから泣きました。

受からないことは分かっていたつもりでしたが、自分なりに精一杯努力し、舞台でも精一杯踊りきったと思っていたからなのか、人生で初めてハッキリと自分に対して「合否」という判定を受けた衝撃からか、とてもショックでした。

ちなみにこの先、私は高校生になるまで毎年毎年落選しつづけるのですが、それはまた。

そんな落ちた私達に北井先生は、「大人になったらちゃんと花が咲くから。慌てなさんな。」と、慰めまじりにそんな言葉を毎年言い続けてくれました。
単純な私はその言葉を聞くたび、「そうか、大人になったら花が咲くんだな。」とそのまま受け取り、落選した翌日からふんふん鼻息荒く稽古に行っていました。