昨日は、「信じる」ということについて、ハナミチと話していた時、それが起こりました。
教会の聖日礼拝の後のメッセージで、
「99パーセント信じていても、1パーセント疑いを持っていたら、それは全く意味をなさない」
ということが言われていました。
これは、私にとって、
「きょえ~


と思われることだったんですね。
確かに、私は神さまを信じていますが、
100パーセント信じていているか?と聞かれれば、自信がありません。
例えば、大きな震災で多くの人々が亡くなったり、
小さな子どもの、余りにも悲惨な事件を聞くと、
「本当に、神さまはおられるのだろうか?」
という思いが、心に浮かびます。
自分自身の問題においても、
自分は一生懸命に生きているつもりなのに、
余りに辛い出来事に遭遇すると、
「本当に、私は神さまから愛されているのだろうか?」
と疑いが心をかすめます。
頭では、この試練には意味がある。
神は私を愛するが故に、試練を与えるのだと、わかっていてもです。
自分の信仰の弱さを認めざるを得ません。
私は、この話をハナミチにして、共感してもらえるだろうと思っていました。
しかし、ハナミチは、
「わからないんだよ。僕、何故だか知らないけれど、ずっと信じていて、
疑ったことがないんだ。疑うという気持ちが、どういう気持ちなのか、全然わからない。
どうして、疑うの?」
と言ったのです。
きょえ~

これが、100パーセント信じるということなのか…

今日もハナミチと話していて、
「僕は、何があっても、何を言われても、とても安全なんだ」
と言っていました。
彼は、知識がなくて困ったりすることはあっても、
不安になることがないようです。
夫に、いろいろ言われて、エネルギー吸い取られて参っている私に、
「安全だよ。受け流していればいいんだよ。
パパは一人だけど、ママには僕もラムもぽっぽもついている。
僕たち4人は団結している。
一人は、団結しているものが、実はとても怖いんだよ。
大丈夫。どんな言葉も、受け流して。」
そう言いました。
神さまは、私に、とても難しい夫を与えると同時に、
勿体無いような子どもを与えてくれました。