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地球がどのくらい広いか知りたくて、まず手始めに ユーラシア大陸をバイクで横断する計画を立て資金を稼ぎ、シベリア鉄道でヨーロッパへ行った。1985年・25歳の時だ。

高校の地理の教科書に載っている世界地図は メルカトル図法の為、北に行くほど実際の面積よりも横に広がっていて、本当の広さが良くわからない。
地球儀で日本列島とユーラシア大陸の広さと比較してみると、とてつもなく広い事がわかった。

バイクで一年かけて日本一周の旅をした経験があったので、日本列島の距離感は肌でわかる。
飛行機を使わず、なるべく地面や海面を移動して、地球の広さを体感したいと私は思った。
...

横浜から船に乗って、初めて日本を離れる時、船内に昭和の名曲「ブルーライト横浜」が流れていた。
汽笛と共にどんどん遠くなる横浜の港を、船の三等船室の丸くて小さな窓から眺めていた。
二度と日本の土地を踏めないのではないかというセンチメンタルな気持ちと、これから見る事になる広い世界への期待が交互に胸に押し寄せてきた。


翌日、船はソビエト連邦(当時)のナホトカに着いた。
ソ連はとても遠く離れた国だと思っていたが、たった一晩で到着した事にとても驚いた。
もちろん、チケットを手配した時にその事は知っていたのだけれど、実際に体験してみて、名古屋から仙台や沖縄へフェリーで行くよりもずっと、近くにある事に驚きと恐怖を感じた。

当時はソ連とUSAが冷戦状態であり、バイクで北海道を走っていた時に、ソ連から北方領土を取り戻そう!とか、ソ連の侵攻を阻止しよう!等という大きな看板をあちこちで目撃したので、ソ連という国は得体がしれない、とても恐ろしい国だと感じていた。
その恐ろしいソ連がこんなに近くにある事に衝撃を受けたのだ。


ナホトカで船を降りると、インツーリスト(ソ連の国営旅行社)の人が私を迎えに来てくれていた。
私はツアーではなく、個人旅行としてシベリア鉄道のチケットをJTBに依頼したのだが、当時のソ連は社会主義国家であり、外国人が自由に旅をする事が出来ず、船や電車を降りると乗降口からホテルの部屋の扉まで、インツーリストの人が付き添う決まりになっていた。

初めての海外旅行であり、ロシア語は全く知らない私にとって、インツーリストはとても有り難い存在であった。
私の旅を手助けしてくれたインツーリストの人は、たいてい二十代の端正な顔立ちのソ連人男性であり、とても礼儀正しく紳士的であった。
流暢な日本語を話し、車で送り迎えをしてくれ、レストランのメニューや観光地も案内してくれた。

レストランでは、食べたい物を私に訊ねて、ロシア語で書かれたメニューを日本語に訳し、私が選んだメニューを注文してから、インツーリストはレストランから出て車の中で待っていてくれた。
それでは申し訳ないので、「一緒に何か食べませんか?」と声をかけても、「ありがとうございます。私達は規則で一緒にレストランで食事をしてはいけない事になっています」と、頭を日本式に少し下げて紳士的に言うのである。

ソ連や社会主義国家は 得体が知れなくて怖いと漠然と感じていたが、統制がとれていて清々しいと感じた。


ナホトカからシベリア鉄道に乗り換え、北欧まで約二週間のソ連の旅が始まった。

当時はインターネットがなく、シベリア鉄道に関する情報はとても少なかった。
小説やエッセイや人の話で知る断片的なエピソード、たとえば「シベリア鉄道や旅では、一日中ヒマワリばかり見える日があるらしい」「シベリアには虎がいるらしい」等といった二三の知識しかなかったので、未知の世界に対して、とてもワクワク ドキドキした。


現在の様に、iPhoneで世界中のライブカメラや風景や情報を手軽に見る事が出来ていたら、一年以上もかけて寝る間を惜しんで仕事を掛け持ちし、節約して貯金して退路を絶って、世界放浪の旅に出ようとは思わなかったと思う。
私は好奇心旺盛であるが、本来とても怠け者なのだ。


当時、ヨーロッパまで一番安い飛行機で行っても、二週間かけて船とシベリア鉄道でヨーロッパへ行っても、ソ連のホテル代やインツーリストの代金を含めても、だいたい同じ位(十四万円ほど)の旅費だった。

シベリア鉄道は長旅なので、すべて寝台列車になっていた。
旅費を節約して一日でも長く世界のあちこちを旅したかったので、一番安い三等寝台列車にした。
三段ベッドが向かい合わせに二つ並んだ六人部屋だった。


昼間は廊下の様になった通路沿いに取り付けられた折り畳み式の椅子に座って、車窓の外の景色を眺めたり、世界各国の人々と単語を並べただけの英語や、身振り手振りだけでいろんな話をしたり、トランプゲーム等をして過ごした。

シベリア鉄道の中には、ソ連の人や 仕事で日本やソ連に来ていた東西ヨーロッパの人々、USAや日本の人等いろんな人がいた。
ヨーロッパの大学の先生やビジネスマンが帰り道、のんびりとシベリア鉄道の旅を楽しんでいるのを見て、日本のビジネスマンに比べて 休みがたくさんあって良いなぁと感じた。


シベリア鉄道の寝台列車の個室は、まるで長屋の様であり、北欧まで二週間近くの旅をしている間、すべての車両を行き来して、多くの国の人々といろんな話をした。

たまにソ連の警察か軍隊の人達が来て、物々しく切符やパスポートチェックや荷物検査や身体チェック等をされたが、緊張したのは最初だけで慣れてくると、まるで映画のワンシーンを目の当たりにしている様でワクワクした。


ソ連の若者たちは、様子を伺いながら、椅子の隙間に隠しておいたウォッカの小瓶を出し、酒盛りをしていた。
お互い つなたい英語を紙に書いて、ヒソヒソ話をしたところによると、ソ連では当時、禁酒令が出ていた様だが、皆こっそりとお酒を飲んでいるのだという。

私はお酒を全く飲む事が出来なくて、本当に良かったと思う。
なまじお酒を嗜む事が出来ていたら、海外で強いお酒を飲んで身を持ち崩していたかもしれないと想う。


シベリア鉄道からの車窓について書こう。
ヒマワリばかり見えた事はあったが、二〜三時間程度だったと記憶している。
それでも、ヒマワリを車窓から見つけた時は「ヒマワリ!」と大声をあげてしまったほど興奮した。
「一日中ヒマワリが車窓から見える」というシベリア鉄道に、大きなロマンを感じていたからだ。


シベリア鉄道は、日に二三度駅や原っぱに止まった。
運転手さんの休息時間だったのかもしれない。
停車時間は一時間以上の事もたびたびあり、車内放送や発車ベルが一切なく、突然止まり、突然発車した。

列車の扉が開くと、皆 外へ出て四肢を伸ばし、深呼吸などしていた。私もそうした。


スカーフを頭に巻いた太ったお姉さんが、列車の間近まで葡萄(ブドウ)を売りに来ている時は買って、たくさん食べた。
シベリア鉄道の中の食堂では、黒パンとスープや肉等のメニューが続き、生野菜や果物に飢えていたからだ。

ソ連の人々は、葡萄を売っている ふくよかなお姉さんも、列車で知り合った若者達も、皆 素朴な感じで、日本の田園地帯の人々と同じ様な印象を受けた。


モスクワでは一泊する様に手配してあった。
北欧までの道中、二週間ずっと狭い三等寝台列車の中で眠るのは疲れると思ったし、ソ連の首都を歩いてみたかった。

シベリア鉄道の車両から外に出ようとすると、インツーリストと書いた旗と「WATANABE」と書かれたボードを持ったソ連のの若者が私を待っていてくれた。
彼は大きな車の後部座席に私を乗せ、まずホテルまで私を送り、荷物を置きシャワーを浴びるまで車の中で待っていて、モスクワ市内観光に私を連れて行ってくれた。

初めての海外旅行に、ソビエト連邦を選んで本当に良かった。
自由に一人で歩き回る事は出来ないけれど、まるで現地の友人知人の様に親切に、日本語でエスコートしてくれるのは、とても心強かった。


ソ連旅行最後の日、シベリア鉄道に乗る前に、たしかレニングラードのレストランに立ち寄った時は、何故かインツーリストがついて来なかった(北欧の国境に近い場所だったからであろうか)。

初めて一人でロシア語のメニューを見ながら注文をする事になった。
「早く注文しろよ」オーラを出して、怖い顔して目の前に仁王立ちしているウエイトレスさんにビビり、適当に三箇所、メニューを指を指してオーダーしたら、三種類のドリンクが私のテーブルに並べられた。

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ナホトカ航路 - Wikipedia 

(USAとソ連の)冷戦 - Wikipedia 


インツーリスト - Wikipedia 

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