【津川雅彦さんと伊丹十三監督】



映画『マルサの女』の完成披露試写会で、津川雅彦さんにお目にかかった。まるでイタリア人かフランス人みたいな濃厚なセクシーさで、当時はその魅力に、私はまだ気がつかなかった。


「徹子の部屋」で当時の津川さんの姿を拝見して、俳優はやっぱり良い女とたくさん付き合って、いろんな体験をしている人の方が魅力的だなぁと思った。


人の前に出る仕事をしている人は、歳を重ねても外見がさほど変わらない人も多いが、津川さんはものすごく顔貌が変わっていった、とても魅力的な俳優だった。あの立派な白髭が似合う日本人はそんなに多くはいないだろう。


1988年に「徹子の部屋」に出演した時、津川さんは大きなパンダの ぬいぐるみを徹子さんに手渡し、「このパンダは妊娠してます。150日ほどたったら、子どもが産まれます」と言って、徹子さんを大いに喜ばせた。


臨月になったら、そのパンダを津川さんが当時経営していたオモチャの店に連れていくと、担当の医者が本当にお腹の中から子パンダを取り出してくれるのだという。

そしてそのパンダの ぬいぐるみの中には、あらかじめ仕込んでおいた子パンダが入っていて、双子の時もあるのだという。


幼稚園にもこの特注のパンダの 縫いぐるみを津川さんがプレゼントし、担当の医者が幼稚園に出向いて、子ども達が見守る中でパンダに「出産」させたのだという。

それを大真面目な顔で、少年みたいに いたずらっぽい目つきで説明する津川さん。素敵な男性だなぁ。

当時はまだ、津川さんの大人の魅力に気がついておらず、本当にもったいない事をした。




マルサの撮影当時、私は知的でダンディな伊丹十三監督の事が大好きで、たまに笑顔を見せて下さると胸がときめいた。


普段の伊丹監督は、はにかんだ笑顔で人の目を見つめて話して下さる人だったが、撮影の時はピリピリしていて、スーパーサイヤ人みたいなバリヤーがあって、監督の3メートル以内に近づく事は出来なかった。



だからこそ、マルサのファーストシーンの おっぱい看護婦の撮影の時、42テイク目でやっとOKが出た時の、伊丹監督のはじける様な素敵な笑顔は、今も目に焼き付いている。

 

.....


マルサのファーストシーンの看護婦役を演じる事になったキッカケは、とてもドラマチックである。


リオデジャネイロのスラム街に住み着いて一年ほど経った頃、母が急死した電報を受け取った。

一時帰国をし、イタリア移民の末裔の恋人と共に永住を決めていた私は再びブラジルに帰る為に、リュックひとつで恵比寿の六畳一間に住み、寝袋で生活しながら、六本木で働いて飛行機代を稼いでいた。



ある夜 午前3時頃、ベニヤを貼り合わせた薄い扉がドンドンと振動した。


「電報です!」と言う男の声。

恐る恐る扉を開けると、小さな紙を手渡たされた。


いったい誰が死んだのかと、胸がつぶれる思いでカタカナに目を走らせた。


「アイタシ  レンラクコウ」


伊丹プロダクションからの電報だった。



伊丹監督の映画『お葬式』を観た事はあるが、監督と面識は全くなかったので、どうして連絡がくるのか、どうしてこのアパートの連絡先が分かったのか不思議に思いながら、朝になるのを待って、記してあった電話番号に公衆電話から電話をかけた。


.....


22歳の時に出演した、下北沢でやった演劇団の芝居の主役が、にっかつロマンポルノの大スターだった 山口美也子さんであり、たくさんのポルノ映画やAV関係者がその芝居を観に来ていて、当時I(アイ) カップだった私はたくさんの、AV出演オファーをもらった。


しかし当時 私は女優業にさほど興味はなく、世界中を旅したいという野望を抱いていたので、その全てのオファーを断った。



その中に、ニューセンチュリープロデューサーズのプロデューサーの 細越省吾さんがいらっしゃった。

マニアックで面白い映画をたくさん作っているところだったし、細越さんの映画話はとても面白かったので、よく事務所へ遊びに行っていた。



21歳の時に自費出版した自分の写真集『実録猟奇娘/渡辺まちこ写真集』(ソノシート付き/ヌードあり)を彼も買って持っていた。


その細越さんが伊丹映画のプロデューサーになっていた。

マルサのキャスティングで、伊丹監督が「大柄で胸が大きくて、人生が顔に出ている女優」を探している時に、私の事を思い出し写真集を監督に見せ、会ってみようという事になったそうだ。


恵比寿にあった六畳一間の下宿の住所は、雑誌『モーターサイクリスト』誌の編集長と弟にだけ教えてあったのだが、その編集長に私の連絡先を訊いたのだという。


.....


六本木の狸穴(まみあな) 坂の近くにあった、伊丹プロダクションを訪ねドアをノックすると、伊丹監督が添付写真の様に、満面の、はち切れんばかりの素敵な笑顔で、ドアを開けて下さり、「ようこそ!」と言って、大きくて分厚くて暖かい手のひらで、私の手のひらを優しくしっかりと握りしめ、笑顔のまま私の顔を長い間じーっと見つめ続けた。

そして、



人生が顔に出ている。

立派な顔だ。



とおっしゃった。

そして、マルサのファーストシーン、病気の老人に おっぱいを与える大柄な看護婦役に即決して下さった。


.....


撮影が終わって、私はリオのスラム街に帰り、それから一年住んだ後、ブラジル人の恋人と別れ帰国した。


ブラジルと比べてテンポが早く、ごちゃごちゃした日本のテンポになかなか戻れず、弟と父が住んでいた家に居候してごろごろしていたが、映画『マルサの女2』が公開されたので観に行ったら、


あまりにも刺激的で脳がシャキッとした。


と、伊丹監督に電話したら

「新幹線代をあげるから遊びにいらっしゃい」という。


いつもの旅のリュックを背負って、伊丹監督に会いに行くと、

「ホラー映画『スウィートホーム』を作るから、お化けの間宮夫人役を演ってほしい。最後は聖母マリアというか、菩薩の様になる役だから君に演ってほしい」という。


伊丹監督の映画は、日本社会の闇の部分を描くものであるが、そこに一筋の光として、菩薩の様な役柄が登場する。

マルサの看護婦も菩薩の役だから、弥勒菩薩に憧れて旅をしている君に演ってもらいたかった。 

と、あの知的でダンディで日本一の監督に、目を見つめられて熱く口説かれたら、演るに決まってる。


.....


何かつらい事があり、打ちひしがれた時、とことん地獄を一周して、最後に辿りつくのは、伊丹監督のあの素敵な笑顔と、暖かくてがっちりした手のひらと、あの言葉である。


あの世というものが、もしあるとしたら、そこでまた監督に会えるかもしれない。

そうしたら、監督にこう言われたい。



人生が顔に出ている。

立派な顔だ。

以前よりもずっと立派な顔になったじゃないか。



だから私はいつも、どんな時も

再び立ち上がる事が出来るのだ。



世界中で一流の素敵な男たち女たちに出会えたのは、本当に幸せな事である。

22歳の時、バイクに積めるだけの荷物以外は ほぼ全て処分して、全捨離して旅に出て本当に良かったと、心の底からそう思う。