〓きのう、「バリトン」 の語源にふれたついでです。「バス」 について調べてみやしょう。
〓ええとですね、昨日、英語の baritone の語源を記しましたが、実を言うと、日本語の 「バリトン」 は、英語から入ったものではありません。どうやら、ドイツ語なんですね。語源は英語と同じです。
〓奇妙なんですが、日本語で、声楽の声域を言い表すコトバは、イタリア語とドイツ語のツギハギなんです。
soprano [ ソプ ' ラーノ ] イタリア語
soprano [ サプ ' ラノウ ] 英語
Sopran [ ゾプ ' ラーン ] ドイツ語
soprano [ ソプラ ' ノ、ソプ ' ランヌ ] フランス語
mezzosoprano [ メッヅォソプ ' ラーノ ] イタリア語
mezzo-soprano [ , メツォウサプ ' ラノウ ] 英語
Mezzosopran [ ' メツォゾプラーン ] ドイツ語
mezzo-soprano [ メッヅォソプラ ' ノ ] フランス語
alto [ ' アるト ] イタリア語
alto [ ' アるトウ ] 英語
Alt [ ' アるト ] ドイツ語
alto [ アる ' ト ] フランス語
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Tenor [ テ ' ノーア、テ ' ノール ] ドイツ語
tenore [ テ ' ノーレ ] イタリア語
tenor [ ' テナァ ] 英語
ténor [ テ ' ノール ] フランス語
Bariton [ ' バ(ー)リトン ] ドイツ語
baritono [ バ ' リートノ ] イタリア語
baritone [ ' バリ , トウン ] 英語
baryton [ バリ ' トん ] フランス語
Bass (旧綴 Baß) [ ' バス ] ドイツ語
basso [ ' バッソ ] イタリア語
bass [ ' ベイス ] 英語
basse [ ' バース ] [ 'bɑ:s ] フランス語
〓実にフシギなんですが、 「男声」 は、おそらく、すべて、ドイツ語経由です。 「女声」 は、おそらく、イタリア語経由です。これは、
日本の初期の声楽がドイツに範を仰いでおり、
声楽を学ぶことができたのも男性だけだった
ということを示しているのかもしれません。もちろん、そう言い切るには、裏付けが必要ですが。
〓語源は、すべてイタリア語ですが、フランス語は同じロマンス語なので、借用語か、本来語か、見分けのつかない語形も見られます。
soprano [ ソプ ' ラーノ ] <形容詞> 「より上の、(文語)最高の」。
← 俗ラテン語 superanus [ スペ ' ラーヌス ] <形容詞> 「他よりも優る」。
← ラテン語 suprā [ ' スプラー ] <副詞・前置詞> 「上に、越えて」。
〓「スーパーマン」、「スーパーマーケット」 の super と起源を同じにする語です。
mezzo- [ ' メッヅォ ] <形容詞> 「半分の、なかばの」。
← ラテン語 medius [ ' メディウス ] <形容詞> 「中間の、あいだの、半分の」
〓 medius の中性形 medium 「メディウム」 を名詞化すると、「中心、社会、媒体」 の意味になります。日本語で言うところの、英語読みの 「ミディアム」 ですね。また、medium という中性名詞を複数形にすると、media 「メディア」 ができます。
〓イタリア語は、medius → medio 「メディオ」 → meggio 「メッヂョ」 → mezzo 「メッヅォ」 のように変化したものでしょう。
alto [ ' アるト ] <形容詞> 「高い」。
← ラテン語 altus [ ' アるトゥス ] <形容詞> 「高い」。
〓英語の high にあたる、ごく普通のイタリア語の形容詞です。フランス語を勉強したヒトは、
haut [ オ ] 「高い」。フランス語
に 「似てはいるがなあ……」 と思うでしょう。同源です。古フランス語では、
alt [ ' アるト ]、 aut [ ' アウト ]、
haut [ ' アウト ]、 halt [ ' アるト ]
という語形がありました。フランス語の l は、後ろに -s, -t などの子音が続くと、母音化して [ u ] になりました。古フランス語は、その変遷期にあたるようです。
〓また、俗ラテン語では、早くから [ h ] 音を発音しなくなっていました。そのため、母音で始まる単語の場合、もともと、h- があったのか、どうかわからなくなって、要らないところに h- を付けたり、必要なところに付けなかったりします。
〓フランス語の場合は、フランク語の *hoh [ ホッホ ] 「高い」 (ドイツ語の hoch) に引きずられたものだと言います。
tenore [ テ ' ノーレ ] <名詞> 「テノール」。
← ラテン語 tenor [ ' テノル ] <名詞> 弓の張り、連続・継続して行うこと、声調、アクセント。
〓現代イタリア語では、慣用句を除いて、音楽用語以外には使わない単語です。今度は、形容詞ではなく、名詞ですね。
〓ラテン語の主格は tenor ですが、語末の音節 -nor には 「長音の ō 」 が隠れています。音量のつごうで主格では短母音になっていますが、斜格 (しゃかく=主格以外) では長母音があらわれます。
tenōrem [ テ ' ノーレ(ム) ] 対格
〓これによって、現代イタリア語形 tenore 「テノーレ」 が説明できます。
baritono [ バ ' リートノ ] <形容詞・名詞> 「バリトン(の)」。
〓これは昨日やったのでいいですね。飛ばしましょ。
basso [ ' バッソ ] <形容詞> 「低い、浅い」。
← 俗ラテン語 bassus [ ' バッスス ] <アダ名> 「ずんぐりむっくりした男」。
〓興味深いことに、ラテン語は、「 altus 高い」 に対する 「低い」 という基本語彙を欠いていました。援用できる単語としては、
demissus [ デー ' ミッスス ] 低い (←下げられた)
depressus [ デープ ' レッスス ] 低い (←抑えつけられた)
humilis [ ' フミりス ] (身分が)低い、卑しい
があるだけでした。
〓そのために、民衆の話す俗ラテン語では、altus 「高い」 に対応する単語を生み出したのでした。
〓古典ギリシャ語の βαθύς bathys [ バ ' てュス ] 「深い」 のドーリス方言における比較級を
βάσσων bassōn [ ' バッソーン ] 「より深い」
と言い、これに比定する説もあります。
〓いずれにしても、古典ラテン語の辞典を引いても
Bassus [ ' バッスス ] 多くのローマの氏族に見られる家族名
〓ローマ人には、まず、いちばん大きなククリの 「氏族名」 があり、その氏族の中に 「家族名」 があり、家族の中に 「個人名」 がある、という3段がまえになっていました。
〓つまり、多くの氏族に共通で見られる 「家族名」 ということですね。
〓古典ラテン語時代には、Bassus は 「アダ名」 であったらしく、 「背丈の低い、ずんぐりむっくりした男」 を指したようです。つまり、“アダ名が家族名になっていた” と考えられます。
〓この bassus は、俗ラテン語では早い時期から使われたようで、ロマンス語圏で共通した語彙になっています。つまり、西ローマ帝国が健在なりしころには使われていた、ということです。
basso [ ' バッソ ] イタリア語
bajo [ ' バーほ ] スペイン語
bas [ バ ] フランス語
baixo [ ' バイショ ] ポルトガル語
baix [ ' バイシュ ] カタルーニャ語
〓現代フランス語では、
bas [ ' バ ] 男性形
basse [ ' バース ] 女性形
となります。古フランス語では、
bas [ ' バース ] 男性形
basse [ ' バーセ ] 女性形
※ -e は曖昧母音。
のように発音したのではないかと思います。
〓フランス語の basse 「バス」 は、1670年にイタリア語の basso から借用されています。歴史的な変化に照らして、ラテン語の -um (対格) に由来するイタリア語の語末の -o は、フランス語の -e で受ける、というのが暗黙の了解です。そのため、
basse [ ' バース ] 「バス」。現代フランス語
は 「女性名詞」 ということになりました。bas の女性形と、偶然、同じ語形になったからですね。イタリア語 basso は 「男性名詞」 です。
【 英語の bass をどう読むか 】
〓英語の bass [ ' ベイス ] の発音はヘンテコだと思いませんか。気がつかずに、 「バス、バス」 と発音していたヒトもいるでしょ。ミュージシャンでも、bass drum を 「バスドラ」 というヒトと、 「ベードラ」 というヒトがいますね。「バス・ドラム」 のつもり、「ベース・ドラム」 のつもり、ということでしょう。
〓英語の bass は、フランス語からの借用です。現代語では用いられませんが、英語には、
base [ ' ベイス ] 身分の低い、卑しい。14世紀末から。
という形容詞がありました。これは、フランス語の bas, basse から来ているもので、
bas あるいは base [ ' バース ] 中期英語
と綴られていました。発音は、「バース」 であったハズです。
〓英語では、15世紀から 「大母音推移」 (だいぼいんすいい) という、
全部の母音の発音が、ドミノ式に変わってしまう
という現象が起きました。
〓「アー」 と発音する “長母音の a” の場合、
[ ɑ: ]
↓
[ æ: ] 15世紀
↓
[ ɛ: ] 16~17世紀
↓
[ e: ] 18世紀
↓
[ eɪ ] 19世紀
と変化しました。
〓ですから、中期英語で base [ ' バース ] と発音した単語は、現代語で 「ベイス」 になるわけです。
〓この単語は、「基礎、ベース」 を意味する base とは、まったく関係のない単語でした。こちらのほうは、ラテン語の basis [ ' バスィス ] 「基礎、土台」 が、
base [ ' バース ] 中期英語
という語形でフランス語経由で入ったものです。こちらは、現代フランス語では、
base [ 'bɑ:z ] [ ' バーズ ]
と s を濁らせて basse [ ' バース ] と区別しています。
〓15世紀なかばになると、声域の 「バス」 を意味するフランス語の bas が、ふたたび、借用されました。中期英語の綴りは、
bas, bace [ ' バース ] 中期英語
※ -e は曖昧母音。
〓すでに存在する、複数の base という単語を避けるために、bas, bace と苦肉の綴りが用いられています。しかし、こちらの単語も、「大母音推移」 によって、発音が 「ベイス」 へと変わってゆきました。
〓ややこしいですね。「ベイス」 だらけです。
〓16世紀以降、語源となったイタリア語の basso に回帰する意味で、
bas 「バス」 の s を2つにした
ようです。しめて、
bass [ 'beɪs ] [ ' ベイス ]
ですね。そんなわけで、英語の bass という綴りは、予測のつかない 「ベイス」 というヘンテコな発音になったのでした。いや、ヘンテコなのは綴りのほうですね。