「ノルウェイの森」村上春樹
冬が深まるにつれて彼女の目は前にも増して透明に感じられるようになった。それはどこにも行き場のない透明さだった。時々直子はとくにこれといった理由もなく、何かを探し求めるように僕の目の中をじっとのぞきこんだが、そのたびに僕は淋しいようなやりきれないような不思議な気持になった。
たぶん彼女は僕に何かを伝えたがっているのだろうと僕は考えるようになった。でも直子はそれをうまく言葉にすることができないのだ、と。 ~中略~ 彼女はしょっちゅう髪どめをいじったり、ハンカチで口もとを拭いたり、僕の目をじっと意味もなくのぞきこんだりしているのだ。もしできることなら直子を抱きしめてやりたいと思うこともあったが、いつも迷った末にやめた。ひょっとしたらそのことで直子が傷つくんじゃないかという気がしたからだ。
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~中略~ 「そろそろ引きあけるよ。電車の時間もあるし」と僕は時計を見ながら言った。
でも僕の言葉は直子の耳には届かなかったようだった。あるいは耳には届いても、その意味が理解できないようだった。彼女は一瞬口をつぐんだが、すぐにまた話のつづきを始めた。 ~中略~ しかし直子の話は長く続かなかった。 ~中略~ 僕が言ったことがやっと彼女の耳に届き、時間をかけて理解され、そのせいで彼女をしゃべらせつづけていたエネルギーのようなものが損なわれてしまったのかもしれない。直子は唇をかすかに開いたまま、僕の目をぼんやりと見ていた。 ~中略~ 彼女の目から涙がこぼれて頬をつたい、大きな音を立ててレコード・ジャケットの上に落ちた。最初の涙がこぼれてしまうと、あとはもうとめどがなかった。彼女は両手を床について前かがみになり、まるで吐くような格好で泣いた。僕は誰かがそんなに激しく泣いたのを見たのははじめてだった。僕はそっと手をのばして彼女の肩に触れた。肩はぶるぶると小刻みに震えていた。それから僕は殆んど無意識に彼女の体を抱き寄せた。 ~中略~ 僕は長いあいだそのままの姿勢で直子が泣きやむのを待った。しかし彼女は泣きやまなかった。
その夜、僕は直子と寝た。そうすることが正しかったのかどうか、僕にはわからない。二十年近く経った今でも、やはりそれはわからない。たぶん永遠にわからないだろうと思う。
オカハセ