「この話が冒頭にある理由とは」


今日は名古屋にて

今野 華都子先生による

「古事記から学ぶ華都子塾」でした。







『阿部國治先生の「新釈古事記伝」


第一章「袋背負いの心」』より。


✴︎  ✴︎  ✴︎


冒頭では

兄神たちである八十神と

一番末っ子の大国主命が


八上比賣(やがみひめ)を嫁取りに行く様子と

その道中に出会った

稲羽の白兎の話しが書かれています。 


八という文字の意味は「たくさんの」


なので、兄神が80人という意味ではない。 

 



また八上比賣の 八上 とは

たくさんのそれ以上の。


つまり史上最も素晴らしいお姫さまという意味です。












兄神である八十神が、嫁取り道中に、

大国主命も立候補する事を知り。


ザワザワとしたのは。


それぞれが、

技やそれぞれの分野での大家であり

一番であるにも関わらず。


大国主命の人間性が麗しく。

在り方、佇まい、発する言葉、一挙手一投足、

全てに滲み出てしまうため。 

 

何かよい手はないかと思い。


嫁取りに向かう旅の荷物や、

技を披露するための道具、

兄神の荷物全てを


袋に詰めて

弟である大国主命一人に背負わせて。


嫁取りの立候補者ではなく

その従者のように見せようと

策略をしたのでした。  

 





 


大国主命は、普段から心映えも素晴らしく。

目の前にきた頼まれごとは全て


自分ができる、できないに関わらず。


「はい!」と承り。


一生懸命に尽くし

成就する心持ちを携えていました。  

 

今回も。


道中、文句も言わず。額に汗をして

明るい表情で。


列を遅れ、

一番あとからついていき。


宿や休憩の場所に到着した時には。


兄神から遅れながらも。

休憩のための食事や用意を施すということを


道中ずっと続けておられました。 

 

その心映えはいかなるものなのでしょうか。 











「袋背負い」

誰かが縁の下の力持ちになり。


文句も言わず。


その功績が表に出て、

それを称賛されることもなく。


ただ尽くすという姿。


技術でもなく、スキルでもない。

その人から醸し出されるもの。 











人の魂の成長段階


それは

幼い当時は 無邪気で。


背景や奥にある思いを

推し量ることさえできず。


過ちは 多かれ少なかれ

誰でも犯すものであり。 

 



人の内側には。


邪で愚かな部分も

理不尽さを思うことも。


それらを感じながら。


自分の痛みを経験して

相手の思いの奥を推し量る容量を増やし。


誰かに赦されて。

自分を許し。 

そしてまた 誰かや何かを赦していく。


そして

できないながらも。


わたくしは 

日々生きる中で 起きる出来事に対して。


そこからどの方向へ

向かっていこうとするのか。


そうやって

魂は育っていきます。 

 


その進む指針。

何かの判断基準として。


阿部國治先生が伝えたかった意図とは。 

いかばかりだったのでしょうか。 

 

 


 



この本を学びはじめ。

2巡目にして。

1回目が始まった4年前からの

自分の容量が増えたこと。


文章の奥にあるものを読み取る深さが

できて来た事に、


この4年を過ごした

人生の学びの深まりを感じます。 


昔の人たちが

当たり前に備えていたもの。


私たちは

脈々と受け継がれてきた大切なことを。


忘れてしまっているのかもしれません。








全国でリアルで。zoomオンラインで。

今野先生から古事記を通して人生が学べます。

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