お盆が近いので再アップ。

2020年8月16日の記事です。

 

 

 

 


 




お墓参りに行きました。

妹家族と、うちの子たちと♡

 

 

 

 

お墓も、お墓参りも、

死んだ時のお葬式も。

 

亡くなった人のためにあるわけじゃない。

霊を慰めるためにあるものじゃない。

 

生きてる私たちの慰めの為にある。

 

 

 

誰もがいつか死ぬ事を受け入れ、

大切な人の死を受け入れなければならない。

 

 

 

 

 

ここに来るとご先祖様が喜んでいる

お水をあげるとご先祖様が喜んでいる

お供えをあげるとご先祖様が喜んでいる

 

 

そう思いたい。

そう思う私たちの心が、喜んでいるんだよね。

 

 

そう信じる、私たちが救われていくんだ。

 

 

 

 

 

 

 

以前、お寺にある冊子でこんな問答を見かけました。

 

 

「亡くなった人はどこにいるのですか?」という問いに

 

「お墓、仏壇、それ以外でもどこでも、あなたが手を合わせる場所全てです。」

 

 

 

 

「ここにいますよ」とハッキリ答えるのではなく、

「そう信じて生きていくことはできますよ」という返事が、とっても好きで印象に残っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

昨日は終戦記念日。

 

毎年、お盆に読みたくなる「火垂るの墓」

 

 

 

 

 

 

映画の映像では切なすぎて見れないけれど、原作は好きで毎年読みます。

野坂昭如の書く、感情の一切入らない淡々とした描写がとても好き。

 

文字は読む側に、

 

どう読みたいか?

何を信じたいか?

 

を委ねてくれる。

 

 

 

私はいつも最後の、

 

 

これやったら節子さびしないやろ、蛍がついてるもんなあ、

上ったり下ったりついと横へ走ったり、

もうじき蛍もおらんようになるけど、蛍と一緒に天国へ行き。

 

 

この清太の声が、悲しくて辛くて悔しくてたまらないけど

でもそれと同時に、解放も感じるんです。

 

諦めにも似てるけど、解放や自由って、結構諦めと似たようなものだと思う。

 

 

それと、「蛍がいるから妹は寂しがっていない」と兄として信じたい気持ち。

 

 

究極的に悲惨な状況でも、「信じたいものを信じる事は自由だ」と感じて、好きなんです。

 

 

信じたいものが、悲し過ぎるんだけど。涙

 

 

 

  

 

昨日、読んでいたら

 

ちょうど、うちの坊と末っ子が

清太とせっちゃんと同じ14歳と4歳だと気づいた。

 

 

 

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諦める、は

負ける、にも似ていると思う。

 

 

 

 

今日の地元新聞で、野坂昭如のこんな言葉があった。

 

 
 
うれしかった。死ななくていい。生きて行ける。

 

 

当たり前だけど「負けたこと」が嬉しかったんじゃない。

 

解放が嬉しかったのだ。

 

けれど、勝ったとしても同じだったと思う。

 

どっちでも同じだったと思う。

 

戦争が終わったことが嬉しいんだ。

 

二極の勝ち負けなんかさ、多くの人にはどうでも良かったんじゃないか。

 

 

 

 

 

 

オンラインサロン で、

 

当時5歳だった母が「空から降ってくる夜の爆弾が綺麗だった」と言って

 

と教えてくれた方が居た。

 

もちろん、「爆弾」が美しいんじゃない。

 

夜空に放たれる炎の光が綺麗だって感じたんだよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私は広島に赦しと愛を感じた。

 

それは「原爆を許す」「原爆は愛だ」と言ってるわけじゃない。

 

その苦しみをただ受け入れる道しかなかった広島が、

 

長い時間をかけて悔しさも悲しさも飲み込み続けてきた事実、

 

「ただ平和を願うこと」しか道がなかった広島、そしてそれが為された広島に、

 

愛を感じたんだよ。

 

 

 

 

 

 

私は知覧で、特攻隊員に美しさを感じた。

 

それは「特攻作戦」が美しいと言っているわけじゃない。

 

それしか道がなかった人たちが、大切な家族や、愛する人や、日本の、

 

「身代わり」になることを信じて引き受けた気持ちを、美しいと感じるんだよ。

 

いのちの身代わりは、最も美しい行為だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最近では短絡的に、直接的に、表面的にすぐ

 

じゃあ原爆を許すのか!

じゃあ特攻を美化するのか!

 

って「全てをダメ」にするけど、そんな表面的なことばっかり言ってる人は、馬鹿だと思う。

 

「どちらか」しか選べないから対立が起こる。

 

 

 

爆弾は嫌だけど、綺麗と感じることもあるし

原爆は許せないけど落ちた広島の赦しを感じることもあるし

特攻作戦は馬鹿だったけど特攻隊員を素晴らしく美しいと感じることだってある。

 

なぜ「どっちか」しか許さないんだろうか。

自分に許さないから、人にも許さない。

 

 

 

 

 
 
自分が、何を信じているのかすら、知らない人が多い。
 
知らずに外側に吐いてばかり。
 
 
 
何を信じて生きていくかは自由。
 
 
自分が何を信じているのかをしっかりと知ろう。
それを続けるか?変えるか?
 
何を信じる自分で在りたいのか?
 
 
たったそれだけのこと。

 

 

 

 

 

 

 

 

75年前の日本、負けてくれてありがとう。

 

今日の平和な日をくれてありがとう。

 

 

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たくさんの人が
愛からものごとを見れるようになりますように。
 
 
 
どんな時も、そういう努力ができる私で在れますように。