自主独立の気概のない者に憲法改正を語る資格なしー改憲ごっこ、護憲ごっこに終始するの愚 |  政治・政策を考えるヒント!

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   政策コンサルタント 室伏謙一  (公式ブログ)

 最近、永田町では憲法改正が流行っているらしい。地方自治に関する規定を改正して道州制を導入するだの、教育無償化を規定するだの、よく言えば百家争鳴のような状況だが、地方自治の具体的な制度等については法律において定めるとされており、仮に道州制なる制度を導入するにしても憲法改正は要しないし、教育無償化についても憲法において規定しなければ実現できない話ではない。要は憲法改正にひっかけて何か言わなければ流行に乗り遅れる、取り残される、自分の立場が確保できなくなると、ビクビクしているということなのだろう。なんという底の浅さか。

 

 そうした枝葉末節、まあ各論としておこう、そうした議論をする以前に、そもそも憲法とはどうあるべきか、その憲法を戴くこの日本という国はどうあるべきかという根幹についての議論が必要不可欠なのだが、その手の議論や意見表明はどうやらあまり人気がないようで、表立ってはあまり見られない。

 

 現在の日本国憲法、敗戦国日本が占領軍から押し付けられた憲法であり、自主憲法の制定をという意見がある。総論としてはそのとおりであるが、そう言うのであれば、なぜこの長きにわたって放置されてきたのか、その総括から議論を始めて欲しいところである。

 

 一方で、最近になって、現行憲法の草案について、先帝陛下がこれでいいとおっしゃったという記録が見つかり、押し付けなどではないという意見がネットを中心に勢いを増しているようだ。しかし、押し付けなのにそう見せない、さも日本側が自主的に憲法を受け入れたかのように見せ、それを通説のようにしてしまうのがアメリカのやり方なのであり、先帝陛下までがそうおっしゃらざるをえなかったということに憤りを感じてしかるべきだと思うが、護憲派は現行憲法を今のまま守るためには、そんなことお構いなしということなのだろう。憲法を「護る」ということの意味についても、改めて考えて欲しいものである。

 

 さて、憲法改正議論の大前提であるこの国の在り方論、憲法の在り方論、改憲派にせよ護憲派にせよ、我が国の社会経済や我が国を取り巻く国際環境を踏まえて常に問い直されなければいけないもの、常に考えていなければならないものなのだが、考え如何、意見如何と問うたとしても、改憲派にしても護憲派にしても残念ながら大した答えは返って来ないように思う。すなわち、前者は日米同盟を軸にした云々、後者は9条を守り平和国家云々といった、これまで何どもどこかで聞いたことがあるような話、聞き飽きた話、大方そんなところだろう。

 

 そして、改憲派は9条を改正して云々と勢いのいいことは言っても、結局は日米同盟が「軸」なのだからつまるところアメリカ様頼り、それにも関わらず「押し付け憲法だ」と主張する。自分たちの発言や考え方に何ら矛盾を感じないのだとすれば、この人たちは何のために改憲をしたいのだろうか?彼らの中には日本が独自で自国の防衛をということになれば大規模な予算が必要となり現実的ではないからだといった主張もあるようだ。しかし自分で自分の国を守らないで誰が守ってくれるというのか?米国はあくまでも自国の利益のために日米安全保障条約体制を作っているだけであって、同条約にはアメリカが日本を守るなどとはどこにも書いていない。改憲派は護憲派を理想主義だ、非現実的だというが、改憲派は改憲派でその主張には全く現実性がない。護憲派が平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼していれば彼らの言うところの平和主義や平和国家は保たれると考え、そう主張するのは問題外として、改憲派のアメリカ様が守ってくださるというのを信じるのも基本的には性格は同じであって、両者は同根であるといって差し支えないだろう。

 

 つまるところ、改憲派にしろ護憲派にしろ、日本を自主独立国家にして自主防衛をしようという考えも意志も気概もないというところであろう。もしあるのであれば、憲法改正は現行の半人前国家、国家とも言えない保護領状態から日本の自主独立をどう取り戻すかから議論されるはずであり、半人前国家、保護領状態を前提とした憲法改正議論など、百害あって一利なしである。

 

 これを機に気づき、勇気をもって議論を進めるならばよし、しからずんば無駄な議論は止め、口を慎むべきであろう。