語録76 | パーサによるトマスの福音書

パーサによるトマスの福音書

Closing the Circle: Pursah's Gospel of Thomas and a Course in Miracles

「神の使者」、「不死というあなたの現実」で再生された、トマスの福音書について書かれた「Closing the Circle」の和訳です。

野口博和さんから以前頂いてた、和訳をアップしています。

 語録76 

Jは言った。「神の聖なる支配は、品物をもっていて、一粒の真珠を発見した商人のようなものだ。その商人は慎重だった。彼は品物を売り、自分のために一粒の真珠を買った。あなたがたも、確かで、長持ちして、蛾が食い荒らさず、虫もつかない宝を探しなさい」

J said, “God's Divine Rule is like a merchant who had a supply of merchandise and then found a pearl. That merchant was prudent; he sold the merchandise and bought the single pearl for himself. So also with you, seek the treasure that is unfailing, that is enduring, where no moth comes to eat and no worm destroys.”


この小さな譬は、自我か聖霊かの選択はいつもどちらか一方であることを示す、また別の言い方である。自我の思考体系は、100%憎しみであり、絶えず変わり続ける。そして、聖霊の思考体系は、100%愛で、永遠である。だからその二つは決して折り合わない。

明らかに、一つは真実であり、もう一つはそうではない。そして、どちらを選択するのか、明白にされるべきである。愛を憎しみ(「特別な関係」)と取り違えている無知の霧から、私たちを抜け出させるために、コースはそこにあり―イエスはそこにいる。 私たちがその違いに目覚めた時、選択はより易しくなる。

自我を選んだ瞬間からそうし続けてきたように、私たちが自我にくっついている唯一の理由は、私たちがそれを「悪魔」だと知っているから、つまり、私たちは馴染みのあるものに安心するからである。イエスと共にその決断から一歩下がることで、光が差し込み、そうして、私たちが見えるようになるにつれ、皇帝が何も衣服を着ていないことが分かるのである。

 同じことが、コースに多くの仕方で表現されている。そして、その過程は、聖霊が差し出す内なる平和と、自我の宝庫にある抑圧や不安とを、もっと見分けるようになるに従って、私たちがそうした選択をできるようにと、計画されている。

(野口博和訳)