語録95 | パーサによるトマスの福音書

パーサによるトマスの福音書

Closing the Circle: Pursah's Gospel of Thomas and a Course in Miracles

「神の使者」、「不死というあなたの現実」で再生された、トマスの福音書について書かれた「Closing the Circle」の和訳です。

野口博和さんから以前頂いてた、和訳をアップしています。

 語録95

Jは言った。「金をもっているなら、利子をとって貸してはいけない。それよりも返済しない人に与えなさい」

J said, “If you have money, do not lend it at interest. Rather, give it to someone who will not pay you back.”


これは別の新約の「続編」である。語録94の「内容に関する注釈」の、パーサの言葉を見てほしい。

 これは、自我の与える仕方は、「得るために与える」であり、対照的に、霊の与える法則は、与えることによって増す(なぜなら、与えるために自分自身が受け取らねばならないから)、というコースの教えとの明白な類似である。
 次の一節はそれを要約している。:
本当の永続的な満ち足りた気持ちを持つ者だけが、真に寛大であることができる。そこに含まれることを考慮してみるなら、このことは明らかである。 エゴにとって、何かを与えることは、自分がそれなしでやっていかなければならないことを暗に意味している。与えることを犠牲と結び付けて考えるならば、ただあなたは、とにかく何かより良いものを得ようとしており、だからそれなしでもやっていけると信じるからこそ与えるのである。「得るために与える」ことは、エゴの避けがたい法則であり、エゴはいつも他のエゴとの関係の中で、自らを評価するのである。

Only those who have a real and lasting sense of abundance can be truly charitable. This is obvious when you consider what is involved. To the ego, to give anything implies that you will have to do without it. When you associate giving with sacrifice, you give only because you believe that you are somehow getting something better, and can therefore do without the thing you give. “Giving to get” is an inescapable law of the ego, which always evaluates itself in relation to other egos.
(T-4.Ⅱ.6.1-5)

この言葉はまた、形のレベルの、この世界の結果は、実践の目標ではない、ということを思い出させてもくれる。 これは、私たちが赦しの道を歩き始めたときにある、大きな罠の一つである。つまり、もし、その結果が見えなければ、私たちは、完璧に赦さなかったのだと考えて、自分自身を攻撃するか、あるいは、彼のコースは上手くいかないと言って、広告の真実性 (truth in advertising) を根拠にイエスを攻撃することになる。こうすることですぐに、私たちは、大切なのは心の変化だという事実を見失ってしまう。どのように、いつ、そのすべてに形の上で答えが出るかは、聖霊の庇護の下にあるのである。

(野口博和訳)