僕の父親は二男一女の3人兄弟の長男として自転車屋の家に生を受け、今から9年前に63歳で他界しました。
僕はそんな父の第二子、長男として1969年に生を受けました。
当然、僕が物心つく頃には彼は父親でした。笑
どんな父親だったかと言えば、人におべんちゃらを言えるような人間ではなくて、無口で無骨。大っきな体格に合った性格の持ち主。よくそんなゴツい口調で商売が出来たなと思いますが、逆に趣味ではせっせと作物を作ったり細かい釣りの仕掛けを自作したり、もちろん仕事の自転車修理やバイク整備士として手先の器用さを発揮していました。そんな性格が好かれたのでしょう。葬儀には読経が足らないくらい沢山の方が参列して頂きました。
彼の手はその大きな体格に見合う肉厚の掌に、よく肥えたイモムシの様な指が並んでいて、エンジンオイルに染まったその掌は、洗っても、風呂上りでも決して落ちる事はありませんでした。僕はそんな父親の掌が好きで好きでたまりませんでした。最後のお別れの瞬間までその掌は変わることはありませんでした。
むかし、その掌で一度張り手を食らった事がありますが、、、ここで書くと生々しいので避けておきます。笑
とにかく、僕にとっては未だに親父越えが出来ない偉大な父親でした。
そして、オイルに染まってはいないものの、全く同じ掌があります。
僕の叔父の掌です。
彼は僕の父親の5つ下の弟。
叔父は当時学校を卒業し、関東の大手ゼネコンに就職し、結婚し、新居を構え子を養い、毎日働かなくても良いような地位に登り、唯一の趣味のゴルフを楽しみながら、たまに和歌山に遊びに来ます。容姿はすらっと背が高く、母親似の二枚目。標準語を話す彼は、僕ら和歌山に居る身内にとっては新鮮で、斬新で、照れ臭い人物でした。
今では僕のスタジオにとても大きな新高梨を何箱も送ってくれます。
僕の父親にしろ叔父にしろ、とにかくお酒が大好きでした。
叔父は酔っ払っては、よく僕の知らない父親の話をしてくれました。そうですよね。彼は僕の父親の弟なんですから。父親のお通夜の後、線香番をしながら聞いた話は未だに目が丸くなる様な内容ばかりでした。
僕はその叔父が和歌山に帰って来るたびに横に座り、近況報告をしながらそっと彼の掌を見ます。
なぜならそこには9年前に他界した、恩返し出来なかった、恩返しする間を与えてくれなかった父親の掌があったからです。
そして
先日その叔父が逝きました。
誰にとってもあまりにも急すぎるお別れです。
もう、
もう大きな梨が送られて来る事はありません。
もう、新鮮な標準語を聞く事はありません。
もう、
もう、あの父親と瓜二つの掌を見ることは出来ません。
もう、
あの笑顔を見ることは叶わなくなりました。
かっちゃん、
今までお疲れまさでした。あとは残された者たちを信じて安心して待っていて下さい。
あ、そうそう、そっちであなたの兄に逢うと思うので、息子が親孝行する前に逝った事に対して不満がっていたと文句言っといてください。
出来ますよ。
なぜなら、あなたの方が3つも歳上になってるんですから。
そうそう。
今回あなたが引き寄せてくれたご縁。つむいでくれたご縁、すでに動き出していますよ。
今までありがとうございました。