初回: 危険思想ふたたび1. “ポピュリズム”って言葉を常識化せんと
http://ameblo.jp/quirimi/entry-11537983013.html
前回: 危険思想ふたたび5.ポケットがあればドラえもんは要らない?
http://ameblo.jp/quirimi/entry-11565230273.html



経済主義社会において経済格差が人としての格差と捉えられることは述べましたが
社会は経済だけで成り立ってはいません。


所得格差よりもさらに大きい格差がいくつもあります。
その一つはコミュニケーション能力の格差でしょう。


コミュニケーション能力は、点数化する、序列化するなどの
合理主義的、人間主義的に評価するのが難しいところです。
コネのない育ちで、成長期にこの能力に無自覚になり、育成を飛ばしてしまうと、
孤立に対する将来のバックアップが何もないのです。
コミュニケーション能力はまた、収入や地位に影響することも多いです。

職縁という危うい関係が地縁・血縁を修復不能にまで破壊している今日、
人“間”は、各自で高いコミュニケーション能力を持っている必要が出てきました。

今コミュ力に欠ける者は、近代以前の村八分ではなく、カイシャ十分という感じです。
居場所も知り合いもゼロという状況が簡単に成り立つのです。


この状態は、経済主義が人々の自然的共同体を破壊し、社会を不安定にし
人々に以前には必要のなかった能力を要求しているが、
この能力は経済主義では測れず(つまりテストに出ず)潜在的であると言い換えられます。



職縁の重要化は、ヒトの工業製品化均質化全体主義化の一因でもあり、
さらなる孤独化と精神の破壊につながります。


企業と国家も、孤独化を推進する力を持ち、人々は孤独化の螺旋を紡(つむ)ぎます。


まず、企業のプロパガンダには孤独化を推進する力が働きます。
友達としゃべったり、自身ですませば全てタダのところを、
何かを買わせ、何かをさせて、時間を使わせる
わけですから。


自由恋愛と見合いもこの関係です。
見合いというのは、信頼性の強い親族の紹介から異性が出会い、
身近なところから恋愛をスタートする機会でした。

しかし、恋という欲を煽って不安定な外で競ってもらえば、産業は儲かるわけです。
僕は若いころにこれらを聞き比べたのですが、戦後を境に日本の流行歌は
軍歌がそっくり恋愛歌に入れ替わっており、驚くほどでした。
のちに知れば、軍国主義の転換が経済主義であることの端的な例でした。

とくに性の産業化、出会いの場の産業化は、自然の聖域に抵触しており危険です。
というか異性と自然に出会えない世の中なんてただの地獄ですよ。
失敗作です。世も末です。
職と信仰(経済主義)のために異性という本質を支払う下層階級は増える一方でしょう。
近代は、これで「女を漁るのは馬鹿で下品」と言いだす奴隷道徳を基盤とした社会です。
一つには第一回で述べたように、“人間のために経済がある”のではなく、
“経済のために人間が生きている”構造があり、
一つには個人を機械に向かわせ(以前に述べた右手を酷使するパーソナル・コンピューティング)
この性行動という本質のために機械も増える螺旋であることは前回述べました。

コミュニケーションの格差
から生まれた、二分だけ参加する村もない孤独な人々は
プロパガンダに極めて弱い存在
です。
藁どころかオッサンのウンコのついた便器をも掴もうとするため、
“これで人気者”とか“一人でも立派な貴方”とか、
疑似友人、孤独ではなく孤高といったルアーへの耐性がなく、思想をコントロールされ
また、1人の時間を過ごす商品にしがみつきます。
同様に、商品を作る行為に没頭させることも容易い存在です。
こうして経済は人々を孤独に追い込みます。


産業が彼らに様々なモノを売り、職場という唯一の生き場で働かせ
それも持たない人々もあふれるようになると、
コミュ力なき孤独な人々の一部は、“同胞”を求めることで仲間を欲します。

そこで、近代国家も各部署が点数を競うことで成り立っている以上、拡大の傾向にあり
信奉者を歓迎しない理由はなかなか見つかりません。
各担当者だって、自分の担当が大仕事になれば自分も大きくなるのですから。

専門家の増えすぎやポピュリズムなどの一連の現代社会の動きに、
コミュニケ―ション能力の格差による孤独化もまた切り離せないのです。




外見格差もまた、経済主義が作り出しているものです。

デカルトあたりを親分とする頭でっかちが、
自分の作った相対的判断にとらわれ、正誤や優劣といった価値判断に狂い、
自分と違う他人や理想と違う自身を否定して発狂寸前である光景と同様、
美醜も価値判断させられることによって作り出されているものです。


美容産業の広告は、人の容貌のある特性を醜いとし、ある特性を美しいとし、
醜いとされた者から金を取り続けることによって
顧客の精神と自然状態を破壊しながら、産業を拡大してきました。
むしろ従事者の精神が心配なレベルですが、従事者を責めているわけではありません。
問題はこの一面の被害者によるのではなく、ずっとずっと大きなものによります。

産業は、人間の身体のパーツを割れば割るほど、
一か所一か所にケチをつけてカネの受け取りどころが増えていく仕組みなので
目、鼻、各所の色、形、体毛の有無などに欠点をいくつも作り出して、無限に釣ります。
全員が美しいと産業は儲かりません
醜い人が多いほどに儲かります
元はアメリカから来た商売ですが、今は韓国か日本が世界で一番進んでいます。


外見格差は本来、極めて小さかった格差です。

メディアが写真や映像を飛ばすようになると、個人的感性の余地は少なくなります。
僕はこれを“カサブランカ効果”と呼んでいますが、
ヒロインを美人と思うほど話が面白くなる構造は、ドラマに溢れています。
しずかちゃんと結婚するのが幸せで、ジャイ子と結婚するのが不幸という話の読者は
話を楽しもうと“しずかちゃんの姿は美人で、ジャイ子の姿は醜い”と思おうとするのです。

もとはこれは、それぞれの母親などを基準に行われていました。
太っているほうが、首が長いほうが、といった基準の多様性は今も各地に残りますが、
どんな人も誰かの基準には合う社会”は、
広告によって、
全員がテレビ顔に花束を贈る社会”になります。
これが容貌格差の増大です。
このファシズム的ヒエラルキーはまた、コミュ力や経済力にも影響します。


外見格差をつけられているのは人間だけにとどまりません。

ゴキブリがおらず、従ってゴキブリ殺しの宣伝がなかった北海道の人が
東京に引っ越し、ゴキブリを捕まえて飼っていたという話がありますが、
プロパガンダ以前、人はゴキブリを見て、単に「虫だ」と思っていました
それどころかイギリスにはゴキブリを食べる習慣があり、
かつての日本にはナマのナメクジを薬として飲み込む習慣がありました。

ゴキブリやナメクジを害虫と思い込むのも、人間の美醜と同じ原理です。


ゴキブリは“家のどこかに、病気の元となる腐敗物やカビを産む古い食べ物が
放置されているので、探して綺麗にしたらどうか
”と教えてくれており、
これは想像に易いですが、持っている雑菌の量はカブトムシと変わらないそうです。

要するに、掃除をすれば、すべてが自然に円滑に片付きます。
金を払い、殺虫毒を吸い、カビの胞子を肺に入れ続けるループはおススメしません。

ゴキブリの外見を“気持ち悪い”と思い込むのも“きれいな”頭でっかちのやることで
“自分が綺麗な存在でありたい”という欲によってガッツリ針にかかったのです。
これは小さな虫への暴力だけでなく、脆い心拠に乗り、自殺に向けてステップを踏む行為です。
前回、どこでもドアをネタに使いましたが、
『ドラえもん』には、のび太がゴキブリを逃がし、ママに怒られるシーンがあります。
しずかちゃんがのび太を選ぶ理由は、こんなところにあるかもしれません。

さらに、ここでサボらされる掃除もまた、嫌な行為でなくてはなりません。
掃除は本来、空間を保有する者が、そこを好きなようにできる権利であり、
心を整理したりすることもできるポジティブな行為でもありました。
産業は、機械を売るためにこの認識をも破壊し、掃除を面倒な義務にしました。
僕の周りにもこのルアーを食わなかった人々、つまり掃除好きな人は結構多いのですが、
ゴキブリ殺しは高度なコンボ業(ゴウ・ワザ)といえます。


一方、ナメクジには明治以後、海外から病原菌が伝わり、
ホントに薬に飲んではダメとか。

持ち家があれば、歌とか作ってもらえるカタツムリ。
持ち家がなければ、塩をまかれて追い払われるナメクジ。
これはこれで現代の経済主義社会を象徴する生き物です。



では、まとめに入りましょう。

これらのコミュニケーション力格差、外見格差が
なぜ所得格差を上回るかというと、

キモメンがどんなに稼いだって、
Tシャツ+百均サンダルの貧乏リア充イケメンに勝つことは絶対にない
ためです。


キモメンがイケメン並の生活を営める状況とは、
ゴキブリが「キャー!!!可愛い!!!」と騒がれ
子猫が「うぎゃ~!!!あたし子猫だけはダメなの!!助けて!!!」
と絶叫され、横にいるポイント稼ぎの男に叩き潰されることを意味します。


これは、貧乏人と金持ちの逆転よりも、遥かに想像しにくいことでしょう。


経済的不平等も、今まで述べてきたように、大きな危険因子です。
しかし、コミュ力格差、外見格差は、経済主義が産んだものではありますが、
経済力格差を超える格差です。
これは平等=経済的平等とした経済主義の一派、共産主義の欠陥でもあります。


孤独キモメン(実際は非リア充で非イケメンの普通の人々を含む人口の大多数であるが
便宜上孤独キモメンと定義)が、“金があればモテる”、“地位があれば他人より上に見られる”……と
騙されて、働かされてもですよ。
この価値観では、彼は“キモメンだけど頑張ってやっと手に入れた者”で、
“外見は意味ないよ。あいつキモメンだけど金持ちで愛人たくさんいるし”と言われ
リア充イケメン金持ちとの格差は永遠で
金や地位が無くなったらとその孤独を思うと、それらは絶大な弱みです。
そのコンプレックスが収まり、精神が安らぐことはなく、人々はこういう弱さは的確に見抜きます。
同時に、自分で格差をつける一方なのです。
キモメンが働いて経済が発展するほど、
産業は力をつけ、宣伝により、イケメンはさらにイケて、キモメンはさらにキモくなります。
独りで使うべき商品と、疑似恋愛や性産物のような虚構の慰みものはもっと増えます。
彼がどうしても金の力でイケメンになりたければ、
彼の系統をしずかちゃんとする文物を大量に発行し続けるしかありません。


産業や道具がコミュ力や外見の絶望的な格差を固定化させてしまったことは、
自然の聖域である、人間の生殖能力に重大な影響を及ぼしたことでもあります。
科学は、個々人の行動や思想と、彼の性的地位との相関性を明らかにすべきかもしれません。


おさらいになりますが、美もまた非美(醜)があって存在できる相対概念であるので
美は醜があってはじめて感じうる
すなわち美の追求とは、隣人、または自身といった醜を求める行為であり
それには何かと比べた上位を目指す欲が必要になります。
美への希望は、同時に醜からの脅迫・恐怖でもあります。
このため、他者や自己と対立しながら、不安定に何かにすがり、釣られやすくなるのです。


このように、現代における不満や不安の原因は自信の喪失であり、
これは経済格差からだけでなく、
経済主義が産んだ、色々と絡み合った複合的格差によるのです。
これが、科学と経済を暴走させた社会の成れの果て、
四次元ポケットがあればドラえもんは要らないと思い込んだ社会の現況ですが、
何が問題かとズバリ言えば、メスにあぶれたオスが危険です。
経済主義はこれを大量に作ってしまいました。



機制昇華逃避などという心理学の用語がありますが、
“闘争より、女の子といたい”がオスの本音です。

新聞のテレビ欄一枚で、嫌というほど正直かつ雄弁にこれを証明できます。


近代国家は、家族制、伝統的農村社会、家庭を崩壊させながら、
軍国主義ならばパイロットが、経済主義ならば金持ちがモテるようにし、
士官や高学歴者といった体制エリートをかつての男根のように崇拝させ、
愚民政策ならば興味をギャンブルや恋愛や手先の技術に煽り、
カウンターカルチャーに無関心にさせ、兵隊や労働者を作ってきました。

一方で、社会はメスにあぶれたオスを大量に作ることは避けねばなりません。
イスラム社会と自爆テロの問題でよく指摘されることですが、
メスにあぶれたオスは、自暴自棄にまでなり、統制も洗脳も効きません
具体的にいえば、一夫一婦制や貞操観念が崩壊していることは末期的です。
社会に自然な目を向けることからではなく、
メスがいないという抑圧から、屈折した方向で社会を破壊しようとします。


“恒産亡くして恒心なし”と孟子の時代から指摘されているように、
犯罪数と所得には強い関係がありますが
年代別の統計だと、犯罪の数は精力にも比例します。
本質は後者でしょう。
多くは“所得が低いとオスとして下に見られる”ことが問題であって
所得は表面的な原因にすぎないかもしれません。
若いと所得が低い傾向もありますし、
特に暴力に関しては、若いオスに多いのは生物的なことです。


不安定な人々には、いわゆる社会の下層が多いのですが、
バカにされ、嘲笑され、友達いないけど、俺だって本当は偉いんだ
といいたいのかもしれません。

僕はこれを肯定します。

無理もないことです。
貧乏人だとかキモメンだとか、彼らが(我々が)下に見られる理由は全くないのです。
経済主義や、その執行機関である教育や美容産業などが、
自分が上に立ちたいという欲から勝手に人間に点数をつけているだけですから。
実のところ、“自分とは何か”ということすら理解できない人間の頭で
人間を評価することなど不可能で、
実際には彼らも上層も、偉くもなければ偉くなくもないのですから
下層とされ、自身でそう信じる者の不満が蓄積されないほうが不自然です。

上層とされる人々もまた、一突きされると崩れる自分の固定概念という
危ういところに乗っているので地雷だらけですが、
とにかくこれら人間評価の信奉は、現代社会のストレスの根本的な原因でしょう。

これらのような格差を創りだしていれば、人々が暴力に向かうのは自然なことです。
何かを抑えつければ反動が来る、圧力が強ければ破裂するのは物理的現象です。


人は、経済に時間を奪われ、他人に価値観を預け、自分に自信を持てないと、
かわりに自分の同類や所属団体を持ち上げようとします

国家や経済は心の救いとなり、さらに宗教としての強さを増しますが、
実態は疑似恋愛と同じくからっぽなので、人々の精神は不安定になるばかり。
ときに生物や物理といった方向にも話を飛ばしましたが、
問題はとっくに経済や政治や社会だけではないのです。





次回: 危険思想ふたたび7..英語人と日本語人の認識の比較からの儒教の発見
http://ameblo.jp/quirimi/entry-11572128099.html