ロルフィングを伝えていても
ピラティスを伝えていても

からだ、とか、動き、というものの中で
不確かさの中にある確かさ
が、とてつもなく鍵だな~

…と感じさせられます。


それでいて、
人って、“不確か”なものに、めっきり弱い。



誰かに「それが正解」と言ってもらいたかったり
確かにしたくなってしまいがち。

けれど、それは本当は
からだの感覚や知覚が導いてくれるような気が
私はしています。



ロルフィングを通じてご本人のからだの中に見つけていく
バランスのとれている場所、というのは

とっても心地良く
頑張らなくてもそこにいることができる
おうちに帰って来たようなほっとできる場所。




ただ、それが難しい。


頑張って力を入れている方が
“何かしている”という安心感があるのか


「こんな楽に立てていいのかな?」
…と最初感じるクライアントはとても多い。
私もそうだったしべーっだ!



ピラティスでも、(これはジャイロでもヨガでも、気功でも太極拳でも、きっと多くのもでそうだけど)


からだがありのままの働きをしてくれる時は(構造的な制限は別として)
とってもスムーズで
頑張らなくても(力を入れるという意味で)
できてしまう。



けど、これが難しく、

これまたやっぱり、
力を入れている方が
“使ってる!”という安心感につながってしまいがち。


「こんな楽にできてしまうのは、
 きっと使い方が間違っているに違いない」

…と思ってしまうクライアントもこれまた多し。
私もそうだったし。べーっだ!



からだの声や、動きを伝えながら
そして、自分のからだで探求しながら

自然の状態というのは
不確かさの中に存在している気がするな~

…とここ数年感じています。

頭も使わないし、
使うのは、感覚や知覚。



バランスがとれて
心地良く立てていたり歩けているときは
特に力が入っているわけではないので
からだの“構造”自体をとても感じにくい。
それが慣れるまでは、きっと不確かな感じがしちゃって


ピラティスでも
うまくからだが働いていてくれる時は
どこにも力を入れている感じがなく
「今度もここに力を入れればできる」
…という確かなものがない。




答えが欲しい、と
大人になればなるほど思ってしまいがちだけれど

からだや動きに関しては
正解というのは追い求めるものではなくて
不確かさを信じてすすめた結果
自然に生まれているものな感じがするな~、なんて。



そして、その不確かさの中に
確かなものが存在していて、

そこに導いてもらうには
感覚や知覚含め、自分の直観的な部分もとても大きく

そこを洗練するには
感じるということが必要不可欠。



まだまだまだまだ、自分のからだで探求中だけれど☆
今日はここまで!
これからがっちり踊って、からだ発見してきます。