闘病記(エピローグ?) の続き
闘病記(あとがき)
ー生きる意味なんてベタな質問ー
私が闘病を経験して一番良かったと思う事のうちの一つが、自分にとっての最高の人生哲学を見つけられた事である。
・・・なんてかっこつけた話し方をするのは早くもここまでにしようと思うけど、ここでいう人生哲学っていうのは、人生を幸せに生きられる方法という意味で。
あれは闘病・・・何年目だ?
長く闘病してると、一年や二年などはどうでも良くなる。
当時ぼくは、長年の闘病の成果が出てきて体調が少し良くなり、それまでに(特に闘病中に)自分が培えてきたものを生かそうと、近い未来の事になるであろう仕事の準備を始めていた。
ところがだ。
体調が良くなってきたからこっちは折角頑張ろうとしてんのに、やろうとする事なす事全てが思い通りに運ばず、そのあまりの上手くいかなさに、十年弱に渡る闘病を乗り越えて「よしここから頑張るぞ」と前向きになっていたぼくの心はあっという間にシュンとなり(頭では分かっていても心が付いていかないってやつだな)、そんな日が数日間続いて、その間もずっと面白いぐらいに全てが不本意な方向にしかいかなかった。
そんな、自分の無力さに途方に暮れていたある日、私は思ったのだった。
能力、してる事、環境、感情含め、全ての事はその時その時に(神から)許可されては与えられてるだけなんだよな、と。
そんな事は闘病中体が動かせなかった時期が長かった自分は重々感じていたつもりだったんだけど、少し元気になって体も動かせるようになってこそ、改めてそれを身をもって理解出来たといおうか。
その悶々とするしか術の無かった日々は、不本意でつまらない時間をただただ受ける事しか出来ず、だけどそんな時にこうも思った。
人生って別に頑張る為だとか、もっと言うと人や自分を幸せにする為だとか、成長する為だとかそんなんじゃ無くて、ただその時々に目の前にある事を全身全力で味わってるべきなんじゃないか。
そうか、それが人生の目的なのかもしれない。
今まで俺は人生の目的はと聞かれたら「幸せのため」と何となく答えるしか無かったけど、幸せの為でもなく、ただ「味わう事」なんだ。
待てよ、それってまんま美術館に行って絵を見たり演奏会に行って音楽を聴いたりするのと一緒じゃね?
「人生の目的が味わうためって弱くね?何だよ味わうって。」とも思ったけど、「何のために美術館いくんですか?」って聞かれて「絵を見るためです。」って答えても何らおかしくないもんな。
だから人生っていうのは、それ自体をただ鑑賞する為にあるんじゃないか。
そんな風に考えるようになってから、例えば部屋で一人踊り狂ってる時には、「あぁ、今こうして俺は踊らせてもらえてて、楽しいと思わせてもらえてるんだな」って前以上に嬉しくなるようになって、体が辛い時には、「これが今の俺の人生なんだな」ってしみじみと噛み締められるようになって、夜寝る時になると、「明日は何をさせてもらえて、何を感じさせてもらえるかな」って楽しみになるようにもなった。
これを書いてる今も、書いてる自分というものを味わい、書けているという幸せに浸らせてもらえている。
そうか、病気のせいで文字通り何も出来ない頃にふと「生きてるだけでいいんだ」って思えた事も、過酷な闘病時代にすがるように聴いてた音楽を聴きながらその頃の事を振り返った時に心に湧いて出た、「きっと、どんな苦しみの記憶も、いつの日かふと、きれいな時間だったと、感じるのだと。」っていうちょっとクサい言葉も、全部ここに繋がるんだ。
「きれい」っていうのは、「濁りが無い」という事だと思う。
あの苦しみの時間は本当に、一枚の絵のように濁り無き、一つの立派な作品だった。
どの時間も、どんな出来事も、昨日も、そしてこの「今」も、人生は数え切れない無数の絵で出来ている。
そう考えたら、その圧倒的な「人生」というものに、胸が一杯になる。
さてと、明日は何があるかな。
美術館、寝るとします。
おやすみなさい。
それではまた明日の御来館をお待ちしていまムニャムニャ、、、