【床本】大序・大内の段「菅原伝授手習鑑」文楽の台本 | さきじゅびより【文楽の太夫(声優)が文楽や歌舞伎、上方の事を解説します】by 豊竹咲寿太夫

 

 

■菅原伝授手習鑑

大内の段

 

 

 蒼々たる姑射の松、化して芍薬の美人と顕はれ、珊々たる羅浮山の梅、夢に清麗の佳人となる。皆これ擬議して変化をなす。あに誠の木精ならんや。唐土ばかりか日の本にも人を以て名付くるに、松と呼び梅といひ、或は桜に准ふれば、花にも心天満つる、大自在天神の御自愛ありし御神詠、末世に伝へてありがたし。

この神未だ人臣にまします時、菅原の道真と申し奉り、文学に達し筆道の奥儀を極め給へば、才学智徳兼ね備はり、右大臣に推任あり権柄に蔓延る左大臣藤原の時平に座を連ね、菅丞相と敬はれ君を守護し奉らる、延喜の御代ぞ豊かなる。

 

かゝる所へ式部省の下司、春藤玄蕃の允友景、まかり出で庭上に頭を下げ

「今度渤海国より来朝せし唐僧、天蘭敬が願ひには、『唐土の徽宗皇帝、当今の聖徳を伝へ聞き、何卒天顔を拝し奉り、御姿を画に写し帰国せよ。その画を即ち日本の帝と思ひ対面せん』との望みにつき、数々の贈り物、即ちこれに候」

と、庭上に飾らすれば

 

菅丞相聞き給ひ

「コハ、珍らかなる唐僧が願ひ。当今延喜の帝、聖王にてまします事隠れなく、御姿を拝せんと唐の帝の望みは直に我国の誉れなれども、折あしき天子の御悩ありのまゝに言ひ聞かせ、音物も唐土へ帰されんや。時平の了簡ましますか」

と、仰せに冠打ち振つて、

 

「そふでない道真。御病気と申し聞かしても、よも誠には思ふまじ。御形代を拵へ天皇と偽つて唐僧に拝さすれば何事なう事は済む。誰彼と言はんよりこの時平が代りを勤め、袞竜の御衣を着し、天子になつて対面せん」

と一口に言ひ放す、謀叛の兆しぞ恐ろしき。

 

菅丞相止め給ひ

「時平の仰せは天下の為、御形代とはさる事なれども、もしはかの僧相人にて、君臣の相をよく見るならば、王孫にあらぬ臣下と知るべし。その時いかゞ仕らん」

暫しが間御思案あり。

 

「所詮天子の御代り、人臣はなり難し。幸ひ御同腹の御弟宮、斎世の親王を今日一日の天子と仰ぎ、御姿画を唐土まで伝へて恥じぬ御粧ひ。この義いかゞ」

と理に叶ふ、詞に違ふ時平が工み、口あんごりと開きゐたる。

 

玉簾深き一間より、伊予の内侍立ち出で給ひ

「両臣の御争ひ、わが君詳しく聞こし召され、『朕が代はりは斎世の宮』と、直々の勅諚にて、只今御衣を召し替え給ふ。この由申し伝へよとの仰せにて候」

と、内侍は奥に入り給ふ。

 

玄蕃の允が案内にて渤海国の僧天蘭敬、倭朝に変はる衣の衫、庭に覆ひて畏まる。

 

「ムヽ唐土の僧、天蘭敬とは汝よな。竜顔を写し奉らんとの願ひ、叶ふは汝が身の大慶。ありがたく存じ奉れ」

と時平が指図に警蹕の、声諸共に高々と、御簾巻き上ぐるその内には、弟宮斎世の親王、金巾子の冠を正し、御衣さはやかに見へ給ふ、げに王孫の印とて、唐僧始め列座の官人、『アツ』とひれ伏し敬へり。

 

天蘭敬漸々頭を上げ、玉体をつくづくと拝し奉り

「ハヽア、天晴れ聖主候や。我が国の徽宗皇帝、慕はるゝも理りなり。三十二相備はつて、言はん方なき御形。勿体なくも僕が筆に写し奉らん」

と、用意の画絹、硯箱、檜の焼筆さら〳〵と、眉のかゝり額際、見ては写し、書いては拝し、御笏の持たせ様、御衣の召し振り違ひなく、即席書きの速やかさ、顔輝が子孫か只ならぬ、画筆の妙を顕はせり。

 

道真公仰せには、

「重ねて俸禄賜びてんぞ。旅館に帰れ」

と下知を受け継ぐ春藤玄蕃、御暇申させ唐僧を伴ひてこそ退出す。

 

帰るを待つて時平大臣、玉座に駆け寄り斎世の宮の肩先掴んで引きずり出し、御衣も冠もかなぐり〳〵

「唐人が帰つたれば暫くも着せてはおかれぬ。九位でもない無位無官に着せた装束この冠、穢れた同然。内裏に置かず我が預かる。今日の次第は右大臣、奉問せられよ、身は退出、まかり帰る」

と、御衣冠奪ひ取つて行かんとす。

 

道真立つて引き取り給ひ

「聊爾なり時平。勅もなき御衣冠私に持ち帰り、過つて謀叛の名を取り給ふや」

と、何心なく身の為を、言はるゝ身には胸に釘、頭歪めて閉口す。

 

斎世宮、菅丞相に向かはせ給ひ、

「天子序の勅諚には、『老少不定極まりなし。何時知らぬ世の中に、名ばかり残すはその身の為。道を残すは末世の為。妙を得たる筆の道、伝ふべき惣領は女子なれば是非に及ばず。幼ければ弟の菅秀才にも伝ふまじ。弟子数多ある菅丞相、器量を択みて筆道の、奥儀を授け長き世の宝とせよ』との御事」

 

と、仰せの内に道真公

「ありがたき君の恵み。わが筆法の大事には神代の文字を伝る故、七日の物忌み七座の幣、神道加持に唐倭、文字は何万何千にも、わが筆道に洩れしはなし。それとも知らずこゝかしこに、手習ふ子供も皆わが弟子。今日より私宅に閉じ籠もり、択み出して器量の弟子に筆伝授け申すべし」

 

と、宣ふ詞は今の世に伝えて残る筆道の、道は御名に顕れて真なるかな誠なる、君が御代こそ豊かなれ 。