「我慢してはいけない」理由。
例えば、
私が誰かのために我慢したり耐えたり無理をしたとして、それを喜ぶ人は、
私自身にも、私の人生や私の幸せにも興味がなく、私が悲しくても辛くても気づかないか無視するかで、
つまり、「私を大事にしてくれない人たち」で、
逆に、
私を大好きで、私のことを大事に思ってくれる人たちは、
私がその人のために我慢したり耐えたり無理をしたりすることを望まないし、そのせいで私が苦労したりしんどい思いをしたり、私自身の幸せが減ったりすれば悲しむし、
ってことは、
「やっぱり、『人のため』に我慢したり耐えたり無理したり、っていうのはやらなくていいってことじゃないか?」
とふと思いました。
「私さえ我慢すれば」
「私が頑張れば」
っていうのは、
「あなたを大事にしない人に召使や奴隷のように扱われ、消費されるだけであなたが惨めにすり減る」か、
「あなたを愛してくれる人には、あなたがその人のために幸せを諦めてしまうことで悲しませる」かで、
「自己犠牲や自己卑下ってのはそういうことなんだよなあ。
『あなたのために』的な我慢というのはだから間違いで、やっぱりやっちゃだめなんだよね。
誰も幸せにならないし、いろんな意味で問題しかないんだよねえ。なるほど~」
と、すごく納得したのでした。
「どうしたらいいかわからない」は。
「どうしたらいいか分からない」って思うときって、
「分からない」んじゃなくて、「べき」と「したい」で葛藤してるとき。なんだよね。
「したい」を選ぶと(親や世間や友達や知人やその他大勢に)怒られそう、非難批判されそう、ってなんか感じてる。
でも本当は人が、じゃなくて、
その奥にある自分自身の恐れのせいで決められないだけ。
「したい」それは、悪いことのような気がしてるあなた。
「したい」それは、自分勝手なことのような気がしてるあなた。
「したい」それは、我儘なことのような気がしてるあなた。
「したい」それは、とても無茶なことのような気がしてるあなた。
「したい」それは、とても非現実的なんじゃないかって気がしてるあなた。
「したい」それは、道徳的に間違ってるような気がしてるあなた。
「したい」それは、大人としてダメな気がしてるあなた。
あなたがそう思ってるから、人にもそうされる、そう思われるって感じてしまって、それが怖いんだ。
だからって、
そういう自分を許さないとダメとか、
変えないとダメ、
なんじゃなくて、
「ああ、私、そんなこと思ってたんだなあ」とか、
「ああ、そうかあ」とか、
じっくりと、
気づくことに気づいて、
しみじみ感じる、
かみしめる、
だけでいい。
何かしようとか、
説得しようとか、
設定を変えようとか、
考え方見方を変えようとか、
それに
「悪い」
「間違い」
「変えるべきこと」
というレッテルを貼らず、
ジャッジせず、
せっついたり、
押したり引っ張ったり、
焦ったり急かしたりせず、
「ああ、私、そんなこと思ってたんだなあ」とか、
「ああ、そうかあ」とか、
じっくりと、
気づくことに気づいて、
しみじみ感じる、
かみしめる、
だけでいい。
心を無にしてただ淡々とそれを感じて、
かみしめて、
眺めて、
いたら、
気づいたら、終わってる。
最高最善に、全部が変わってる。
それが、「マインドシフト」で「SOU」。
心の傷が治らないと性格も直らない。
せっかくヒーリングやエネルギーワークを学んだのに、なかなかうまくなれない原因は、
「使わないから」
「やらないから」で、
うまくなるには、
数、
やった回数、
単純にそれ、それだけなのに、
それをこなさないからうまくならない→
うまくならない、分かるようにならないから面白くなくなって、やる気が無くなる→
結果使わなくなる。仕舞い込んで宝の持ち腐れ、タンスの肥やしの洋服のようになる。
このね、
「やってみない」
「数をこなせない」原因、
日本人にとてもとても多い、パターン。
正しく、
真面目に、
正座して、
しっかり時間を取って、
きちんと、
ちゃんと、
完璧に、
やろうとするから!
ちょっとくらい間違っていたって、
うろ覚えだって、
やりたいところだけやったって、
それで良いのに、
好きに使えばいいのに、
日本の学校教育の賜物というか、
「先生の言う通り」
「真面目に」
「素直に」やってきた「良い子」ほど、
学校や、会社、職場、
「普通の社会」での「常識」や「当たり前」の中で疑問を持つことなく、そつ無く恙無くやれている現実的思考の「ちゃんとした人」ほど、
ヒーリング、エネルギーワーク、宇宙、
みたいな、
「自由」
「何でもアリ」
「自己責任」
の世界ではどうしていいか分からなくて、
自分で考えて、
自分で判断して、
その全責任を負うチャレンジ、
なんてやったこと無いから怖くてたまらなくて、
誰かの保証してくれた「正解」を欲しがる。
「自分で考えてやってみる」が出来ないから、
その結果「失敗」したら怖いから、
「マニュアル」
「テキスト」
「正しい手順」
「正しいお作法」
そんな、「誰かの保証してくれた正解」に従おうとする。
「正しさ」
「間違いない」
「はみ出ない」
「言う通り」にこだわる。
で、「その通り」に真面目に真面目にやろうとし過ぎて、
自分が自分に課したその枠、プレッシャーがきつくなって→
「ちゃんと」やらない、やれない自分に自己嫌悪になり→
やがてそれが自己否定になっていき、辛くなってきてやめちゃう。
そのチャレンジ、試みの経験を、心の、記憶の奥にしまいこむ。
なぜなら、それを思い出すと、
その出来事、記憶に触れると、
「また中途半端で投げ出した」
「時間やお金を無駄にした」
「いつもやり遂げられない」
みたいな、自分への自己嫌悪と自己否定の感情が蘇ってきて辛いから、
その感情が襲ってくるから、「無かったこと」にして生きようとする。
もう二度と「間違わない」ように、「スピリチュアル」「宇宙」に触れない。
”そんなのにお金使っちゃダメ。
「やっぱり」「無駄遣い」はダメ。
欲しいから、ワクワクするからってやってみた結果後悔したでしょ?
またあんな思いするの嫌だよね?
真面目に、無難に、普通にやっていたら、生きていける。あんな痛い気持ちになることもないんだから。”
と元の世界に還る。
閉じこもる。
ほんとは、出たかったのに、
ワクワクの、キラキラの世界に生きたくて、勇気だして頑張った過去の自分を、
責めて、
責めて、
叩いて、
叩いて、
「ほらみたことか」と苛め抜いて、
二度と「大それた」希望を持たないようにと閉じ込めようとする。
そしてまた「やってみたい」「ワクワク」が出てきたときには、
”そんなのにお金使っちゃダメ。
「失敗」「無駄遣い」はダメ。
欲しいから、ワクワクするからってやってみた結果後悔したでしょ?
またあんな思いするの嫌だよね?”
と、脅して、強力にブレーキを掛ける。
そもそも、
「自己肯定感を高める」
「自分を許す」
「自分を愛する」
「癒し」
そのためにやったのに、トラウマを強めてしまうジレンマにハマる、大勢のスピ好きな人たち。
↑の自己嫌悪、自己否定感は誰にでもあって、
実はそれって生命維持のための「安全装置」で、本能に直結していて、だから強力で厄介でね、
だからこそ、
それがそうなった原因、
そういう価値観を持つにいたった過去の記憶、
当時の痛かった心、傷、
から総合的に扱わないと、調整しないと、変わらない。
心の傷が治らないと、性格も直らない。
それをせずに表面の「設定を変える」とかやっても、まあ、たいていの人はほとんど意味がない。なんにも変わりません。
インナーチャイルド、過去の記憶、過去世、遺伝的な傷を丸ごと、全体的に、総合的に、最高最善に癒す(こころの再創造)→
過去の、それまでの人生の記憶、「認知」が変わり、
特定の出来事や選択でいつも起きていた自己嫌悪や自己否定感も出なくなる→
今の自分の価値観、世界観(人間観、社会観、男性観、女性観、他いろいろ)が変わる→
自分の内側の世界のその変化が外側の世界に反映されて、引き寄せるもの、目の前の現実が違ってくる→
人生の「軌道」が変わる。
「パラレル」に一瞬で移動するように、直後から「別の流れ」が始まる。そこを生きるようになっていく。
これが、ヒーリング。エネルギーワーク、スピリチュアル的アプローチでやること。心への対応の仕方。
性格、価値観を変える、
自分らしさを取り戻す、
自由になる、
心を軽くする、
生きづらさの解消、
のために、この視点でアプローチして、本当の根本からやろうとするもの。
「過去世」とか
「エネルギー」とか
「DNAを書き換える」とか、
科学や医学などの「まっとうな」学問の世界では「無いこと」になってる部分も「ある」として丸ごとで扱うから、
スピリチュアル的対処は大きな効果が期待できる。
可能性が無限大。
ただし、
それを行うヒーラーの知識と経験と世界観、
受ける人の覚悟とか経験とか理解度
によって効果の体感に大きく差が出ます。
「ヒーラー」と「受ける人」との掛け合いで、結果、着地点だって違ってくる。
効果が大きいヒーリングは、扱うエネルギー、範囲が大きく深くて、
そうであるほど、「思った通りのコントロールがそもそもできない」レベル、になっていくので、
受ける方も、そういう世界観ごと受け入れて大きく理解して、
常に自分の心を見つめて、自分と向き合って、自分を理解していく、
という生き方を一緒にしないとダメ。
スピリチュアル、ヒーリングって、大きい効果を望むほど、受け身、依存じゃだめになっていきます。
自身の「自己責任意識」をコツコツ育てていくことで、自分の世界も変わっていき、
その中で徐々に、「変える」「変わる」がどういうことか知っていく、ものだから。
こういうのの先に、
「宇宙(神様・天使・高次の存在・ハイヤーセルフ・創造主、などなど、他いろいろ)におまかせ」
という到達点があるのです。
大勢の「スピの入り口」にいる人たちの中には、なんでも「どうしたらいいんですか?」と聞いて聞いて、「正解」を、「絶対の保証」を求めまくってなかなか動こうとしない、やってみようとしない人たちがいてね、
で、たまにほんのちょっとやってみて、その結果が自分の思う通りじゃなかったら情報提供者(本とかブログとかもね)を責めたり恨んだり、する人たちもいっぱいいて。
この「クレーマー」たちは、たとえば、
「100円ショップで買ったもののクオリティが低い」と怒ってる、人と同じ。
その人は、その商品に100円しか払ってないわけです。
まず、
「100円くらいならいいか」
「100円だったら(失敗しても)そう痛くない」
と思って、そのくらいの投資しかしていない。
更に、この人は、
100円の商品にたとえば1000円とか10000円のクオリティを期待している、そういう、ちょっと特殊な「当たり前」の価値観を自分が持ってると気付いてない。
だから、100円で買った商品が自分の合格点に満たないと感じると、
「なんだこれは!」
「100円の価値がない!」
と不満を持つ、文句を言いに行く(普通にクレーマー)になる。
たかだか1000円~千数百円くらいの本に対してぐちぐち文句言ってる人(しかも押し売りされたんじゃない。買うと決めて買ったの自分なのに)、
本じゃなくても、自分が選んで決めて買ったものに対して、それがセミナーでもセッションでも、服でも化粧品でも食品でも、何でも、
過去の自分の選択と期待通りじゃなかった結果に後悔して落ち込んで、
その悲しみと怒りの矛先がやがて提供者への恨みに変わってく、人たちって、こういうマインドなんだよなあと思いながら見てる。
彼らに足りないのは「自己責任意識」だといつも思うの。
それに気づいて「自分の中」に戻らないと、
自分の選択、その結果も、そこまでの過程も、味わうあらゆる感情も、自分の人生のすべてを自分で引き受ける生き方をしないと、現実創造(引き寄せとかね)もやっぱりうまくできないようになってるのです。