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■『愚管抄』と『日本一やさしい天皇の講座』

中世日本の歴史思想を示す古典の代表とされている『愚管抄』。

著者である慈円は鎌倉幕府が設立する直前の平安末期の人であり、藤原摂関家、とくに九条家の人であり、天台宗のトップであり、台密の修法者であり、和歌の達人でもあるという、非常に多くの”顔”を持つ、当代一流の知識人でした。

 

このため『愚管抄』の思考的要素も、この時代の知識人の常識となっていた末法の観念、末世の意識と時処機相応の論理、藤原家出身者たる自負と祖神春日明神への信仰、九条家の人たる自覚と慈恵大師への帰依、顕教をもって国家を守護し、密教の修法をもって悪霊を長伏線とする思想、日本文化への深い愛情など、慈円の持っていた様々な”顔”が反映されていると言われています。

 

これらの事柄は一つずつ掘り下げていくと仏法の奥義にも関わるような非常に専門的な内容に入り込んでしまうのですが、『愚管抄』が目指したもの、慈円が企図したものを一言で言えば、

「皇室を知ることで日本を知ろう」

ということにあったように思います。

 

慈円自身も「まずこの書をこのように書こうと思い立ったのは、物事を知らない人のためであった。」と書いていることを思うと、『愚管抄』は、現代で言うところの倉山満先生の『日本一やさしい天皇の講座』(扶桑社新書)、『国民が知らない上皇の日本史』(祥伝社新書)として書かれたものだったのでしょう。

 

■日本は神代以来、立憲君主の国

慈円は『愚管抄』で

遠くは伊勢太神宮と鹿島大明神(藤原氏の氏神)、近くは八幡大菩薩と春日大明神というように、神代の昔にも現代にも神々がしっかりと評議決定なさって、この世をささえておいでになる。今、文武兼行の人をして君の御後見役をつとめさせるべきであると、ああ移りこう移りしたのち、この末の世になって、そのように定められたことが明らかになったのである。

 

それに中国の王朝でただ眼目とされることは、国王となる人の器量の一点だけであり、器量がたいへんすぐれているということをとりあげ、そのひとが打ち勝って国王になるものと定められている。

 

しかし、この日本でははじめから王の血筋がほかへ移ることはない。臣下の家もまた定められているのである。そしてそのままに、どんなことが出てきても、今日まで違えられることはなかった。百王にあと十六代残っているその間は、このあり方は不意に変わったりすることがあってはならない。

と述べます。

ここでいう伊勢太神宮と鹿島大明神の約諾とは、天照大御神が天児屋根命(アメノコヤネノミコト。藤原氏の祖先神)に対して「神鏡と天皇の御殿の中に侍して、よく御守り申し上げよ」と命ぜられたという『日本書紀』神代紀下の天孫降臨の条にある言葉から導き出されたもので、政治体制もしくは官職制度としての摂政・関白も歴史的変遷の結果として成立したのではなく、このニ神の約諾に起因するというのです。(二神約諾説)

 

続けて慈円は、

君は臣を立て、臣は君を立てて世を治めていくという道理がしっかりと存在している。日本国では、この道理を昔から定められたあり方であるとしてきたのであって、この道理によって先例を明白に理解することができるのであるから、それを事にあたっていちいち考え合わされて、道理を理解なさり、その筋を通されさえしたならば、たいへん立派な世となるであろう

と述べます。

 

慈円の主張に従うのであれば、「日本は神代の時代から立憲君主制の国である」と言ってもよいのかもしれません。

けれども慈円が生きていた時代には300年の長きに渡り続いてた藤原氏による摂関政治は保元の乱、承久の乱を通じて既に凋落し始めていました。

 

■慈円の王権神授説~源氏将軍宝剣論

保元の乱以降、武者の世となり、政治のルールが変わりました。慈円は兄・兼実とともに武家との協調路線、すなわち源頼朝ら鎌倉幕府支持を打ち出します。そこで出てきたのが、源氏将軍宝剣論です。

 

宝剣とは三種の神器である天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ。草薙剣とも言われる。)のことです。

壇ノ浦の戦いの結果、平氏は敗れ、安徳天皇を祖母の二位(平時子)が抱きかかえ、神璽・宝剣とともに海に飛び込みます。

神璽はそれを納めていた箱が海の上に浮いていたのを武者が救い上げ、神鏡の方は大納言時忠が海からとり上げて保持していたため無事でしたが、結局、宝剣だけは安徳天皇とともに海に沈んでしまいました。

 

このことについて、考えを巡らせた慈円は、源氏将軍は宝剣の生まれ変わりだという結論を導き出します。

そもそも、宝剣が失われてしまったというこのたびの出来事ほど天皇の政治にとって心の重いことはないであろう。

そこで、このことについても、理解すべき道理がきっとこめられているに違いないと思い、考えをめぐらすと、今の世の中は武士がひたすら表にあらわれて天皇の守護者となる世の中であるから、それと入れ替わって宝剣がなくなったのであると思えてくるのである。

 

それというのも、剣は太刀といって兵器の大本である。つまり宝剣は天皇の武の面の御守りなのである。

国主は文武の二道によって世を治めるのであるが、文は経体守文(祖先のあとを受け継ぎ、成法に従って武力によらずに国を治めること)といって国王の御身につき従うものであり、東宮には学士、天皇には侍読や儒家がおかれている。武の方は、この御守りに皇室の祖先の神が乗り移って守護し奉るのである。

 

そのうえ今は、武士の大将軍がしっかりと政治の権を握って、武士の大将軍の心にそむくようでは天皇も位についておいでになれないような時のめぐり合わせがはっきりと表にあらわれ出てきた世である。そして、そのことを伊勢太神宮も八幡大菩薩もお認めになったのであるから、こうなっては宝剣はもう役に立たなくなったのである

 

さらに源実朝が暗殺され、藤原頼経が摂家から迎え入れられ、第四代将軍、すなわち摂家将軍となったことについても次のように述べます。

摂関家出身の将軍がこうして出てくるのは、八幡大菩薩の御はからいなのであって、世を守り君を守るべき摂籙の家の人を文武を兼ねて威勢があるように作りなおして、世のため人のため君のために八幡大菩薩が進上なさったのだということを、後鳥羽上皇はおわかりにならないのである。このことこそははなはだしく重大なことである。

 

これは君の御ためには摂籙の臣と将軍とが同じ人であるのがよいであろうと、確かに照覧なさって御指図があったのだということであって、その理由は明らかなのである。摂関家出身の将軍は、謀反の心をもたず、しかも威勢が強いから、それに君の後見役をさせようという八幡大菩薩の御意向なのであるから、君もそのようにご理解いただきたいものである。

 

(中略)

後鳥羽上皇は、衰えたものが復興しようとする場合に見られる道理についても、また昔から移り変わってきたこの末の世の道理を皇祖神や国家の守護神が照覧なさっていることについても、御存じなくてあさはかな御処置をとっておいでになるとお見受けするのである。ものの道理やわが国のなり行くさまは、前述のことを行ってこそしっかりとおちつくものであろう。

 

(中略)

過去と現在はかならず呼応しあっており、外見は昔と今では変わっているようでも、同じ一つの筋道でささえられているのである。大織冠(藤原鎌足)が蘇我入鹿をお討ちになって、世はしっかりと悪をとどめ善を行なうという道理にかなうようになったのであった。今またそのとおりに行わなれるべきであろう。そうしてこそ君臣はしっかり合体して世はめでたく治まるのである。

ここの慈円の王権神授説は完成を見たと言えるのではないでしょうか。

 

次回以降は「魔王の王権神授実践編(仮)」の予定です。