皆さんこんにちは、Maryですニコニコ



長尾弘先生の浄心庵ホームページに掲載されていたコンテンツ



シリーズとして右矢印こちらのカテゴリーにアップしていますので、良かったらご覧ください音譜

文章については、掲載されていた文章をそのままコピペさせて頂きます。
長尾先生と有志の方に感謝いたします。

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平成十五年十月号
 
 
 
心を開く
 
☆ 「大宇宙は大神体なるがゆえに この現象会も神体なり 神体なるがゆえに 大神殿なるべし」この大宇宙が大神体、つまり神の御姿であり、その中には目に見えないエネルギーが充満していますから、大神霊ともいえます。宇宙を一秒の狂いなしに動かしている見えない力、このエネルギー、これこそまことの神であると知った時、たとえ無神論者であったとしても認めざるを得ないはずです。「私は神を信じません」と、この世に神様はいないという方がありますが、神を受け入れることのできない人は、自分から神をお断りしているのですから、迷わざるを得ません。
 迷いの第三号は執着を持つ人です。執着を持つと、自分の心がそこにとどまります。
 第四号は心に砂袋を持つ人です。
 この砂を軽くしないと、死んでから絶対に上にはあがれません。重いものが上にあがるはずがないのは自然の法則です。閻魔さんが瑠璃玻璃鏡と釘抜きとを持ってきて「おまえは何をしたか、嘘をついたらこの鏡にみな映る」と言われ、もし嘘をついたら舌を抜かれるという話がありますが、あれは嘘です。自分が拵えて、自分が迷い、自分が過ちを犯して、自分の心を重くして、重いから沈んだだけのことで、閻魔さんなどいるはずがありません。軽い人は軽いがゆえに浮き上がっていくだけです。
 
 変な仏教の中には、七、七、四十九の間、親戚縁者が集うて「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と拝んだら、地獄に行っている人に届いて、閻魔さんから勲一等を許されて、良いところにいけるとか、七回拝んでもらったら、もう少し良いところにいけるとか教えているのがありますが、これも真っ赤な嘘です。そんなことがあるはずがありません。お坊さんには怒られますが、神理は曲げることはできません。
 お坊さんがなんとおっしゃろうと、神父さんがなんとおっしゃろうと、関係ありません。神理はただ一つです。私の口を通して語っていただくことは神の声です。お坊さんが反対しても神様は正しいのですからどうしようもありません。間違っていたらだめです。「お金を上げなさい」とよくいう宗教があります。まとめて上げさせるのやら、少しずつ絶えず上げさせるのやら、いろいろあります。しかし、神様は一銭もお受けになりません。神の御手には一銭も届きません。このイエス様の写真の前に一万円を置いて「イエス様どうぞこの一万円を使ってください」とお願いしましても、いつまでたってもなくなることはありません。イエス様がポッと手を出されて、一万円を取られたら本当ですが、そんな神様は見たことがありません。
 神の世界ではお金は必要とされないのです。「神様に上げなさい」と言って、ある宗教では入会と同時に袋を渡されまして、その袋の中には、さらにお金をあげる袋が五つはいっているそうです。玉串料、感謝料、お守り料と、みんなそれぞれを入れて持っていくようになっているのですね。そのお金は、いったいどなたが使ってくれるのかといいますと、頭に毛の生えた者たちです。お坊さんは頭に毛はありませんが、あれは剃っているだけです。そういう方がみなお使いになります。世の中にはいろいろな間違ったことがあって良いのです。
 人はその方その方の魂の段階に応じて、その人が修行する場所として与えられております。私たちの正しい法に縁をいただける方は、いかに得難いかということです。得難いご縁によってこうしてともに学ばせていただきます。正しき教えに巡り会い、ご縁をいただくのは「片目の亀」のたとえよりもなお難しいのです。今、日本は一億二千万からの人口です。私たちが巡り会えるのは本当に一部の方たちとです。一億何千万人のうちから何千人としかご縁がありません。ほんとうに、穴のあいた丸棒に盲目の亀が首をつっこむよりもなお難しいことです。
 しかし、これは皆様が一人ひとり縁のある方に伝えてもらったら、やがて誤った信仰から救われる方もたくさん出てくれることと思います。ありがたいことに、今こうして話したことをテープに録音してもらっています。私は著作権の侵害などとはいっさいいいません。各自持ってかえってもらって、各自がダビングをいて、各自がほかの方にあげてもらったらいいのです。そうすれば、どんどん広がっていきます。
 現在、日本全国に私のテープが回っているようです。沖縄はもちろん、北海道でも縁ある方に聴いていただいております。私は自分の心の中で、日本中にこんなに急激に知ってもらうということは、これっぽっちも考えたことはありません。ただ下座にあって、岸和田の磯上の一隅で縁ある方が何人か集まり、この一隅さえ照らさせてもらったらいいと思って、高橋信次先生が亡くなられて以後、ずっとお話会を続けてきました。それが次第に各地から「来てくれ」と言って招いていただくようになり、去年の八月から爆発的に全国に広がったのです。
 しかも、皆さんは正しい教えを求めておられます。高橋信次先生が亡くなられた後は、皆様ばらばらになって苦しんでおられました。その指導者たる方が自分の知と意を持って、自分なりの教えを説こうとされますが、先生からはずれた教えをされて、教えに背くから、縁ある方々が苦しまなくてはいけなくなります。昨年の八月以来東京の方で、先生に縁のあった組織の方が一度に二百人まとまって脱会されまして、私の方にご縁ができました。その後また百人ほど脱会されたそうです。ごそごそ抜けてこられましたら、これはえらいことです。まあいわば商売敵となります。
 「あいつは私の信者さんを取ってしまった」と言って怒っておられますね。また、九州の方で、高橋信次先生の教えを伝えていた会員さんたちが、櫛の歯がぽろぽろ欠けるように抜けて、私のところにたくさんの方のご縁ができました。先日、九州の方からの電話によりますとどんどん抜けてこられるので、「あの長尾という奴は高橋信次先生に破門された者だから、あんな奴の言うことを聞いてはいかんと、講演のテープの中で話しております」というのです。そういうテープが回っているのだそうです。しかし、私は破門されるほど立派な人間ではありませんでした。破門されるというと、相当偉くなければそのようなことにはなりません。私は何十万人の会員さんのごく下っ端のひとりでしたから、先生は私という者がいるということもご存じなかったでしょう。
 ご存命中はどこに誰がいると言うことは、いくら先生でもお分かりではなかったでしょう。先生の目にもとめてもらえなかった存在の私ですから、そんな者が破門されるはずがありませんね。その私のことを九州ではそのように言っておられるそうです。電話をくださった方たちは、「私たちが防波堤となって、そういうものを防いでまいりますから、どうぞ先生がんばってください」と連絡してくださいました。しかし、私は防波堤も何もいりません。それは、私には一切の望むものがないからです。名前を売りたいとか、このことでうまく金儲けをしたいとか、全員から金を集めて記念館を建てたいとか、自分の地位を得たいとかいう、望みは何もありません。
 私にあるのは、縁によってひとりでも多くの方が幸せになってくれたらいい、苦しい方が救われてくれたらいい、病気が治ってくれたらいい、と言う願いの何ものもありません。欲のないもの、望むものの何もない者に、どのようなものがのしかかってきても、かかる場所がないはずです。もし欲があれば、「これはえらいことだ、これを取られてれはいかん、何とか防衛しなくてはいかん」と、防波堤を作りもします。   しかし、私にはそんなものはいりません。欲しければ皆さんに全部差し上げます。このように来てもらっても私には何の儲けにもならないのですから、いっそ皆さんからクビにしてもらいましたら、私はどんなにか楽になれるのにと思っています。そういう思いの者に、いくら悪口を言ってくれましても、いっこうに通じません。
 しかし、組織を自分の生活の糧にしておられる方にとっては、何とかして自分を守らなければ食べていけませんからね。宗教家は宗教で飯を食っております。そういう人はすべて自己保存の心が湧きます。それは、食べられなくなるから当然のことです。食べるために組織を大事にしなければいけないし、金を上げてくれる人を大事にします。
 私は神理の実をいっぱい実らせた一本の大樹になりたいと思っています。この実を食べたら不老長寿です。死んでも死にません。それは死んで極楽の世界に帰れるからです。このような素晴らしい実をいっぱいならせて、すべての生きとし生けるものの栄養にさせていただきたいというのが私の望む理想です。そのようにならせていただきたいと常に心がけております。
 この世は自分が生きるのに精一杯でヒイヒイ言いながら自分のために生きておられる方々も多いですね。しかし、自分よりも人様のために生きてみてください。ご主人のために、奥様のために、両親のために、子供たちのために自分を犠牲にして生きるのです。そのとき、与えられます。愛するがゆえに愛されます。与えるがゆえに与えられるのです。与えない者には誰も与えてはくれません。
 させていただくから、していただけます。してやってはいけません。これは徳をみな人にやってしまいます。「こうしてあげる」「私はあの人に、こうしてあげた」というのは、みな徳を人にあげているのです。「私はさせていただいた」と言う心がけの時、その徳は自分がいただけるのです。
 だから「許させていただく」のです。ひとはつい、「してやった、してやった」と言います。場所によって言い方が違うのですけど、南の方のある島へ行きますと、借りてきたお金を返しに来て「これ、やるわ」と言っています。普通ならば「自分が借りていて、これをやるとはおまえなんということを言うのか」と叱られるところです。「やる」と言う言葉はいけません。この場合は、「返させていただきます」と言うべきです。
 用事をするときも同じことで、「私がさせていただきます」「どうぞ私にさせてください」これならば徳がいただけます。「私がしてあげます」では、徳をやってしまいますから、どうか皆さんは徳がいただけるように行動して欲しいと思いますね。
                    「心行の解説」講演集上より



引用元 http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Tachibana/1180/(閉鎖されています)



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