皆さま、突然ですが、野田村地域おこし協力隊の山口です。

ここ2年、この「のだ千年の松」の活動に参加してきました。そして、先の米国での報告会にもメンバーとして参加しました。

苫屋の久美子さんの助言を得て、このブログの場を借りて以下の活動の紹介をさせていただきます。

是非、参加のご検討をお願いします。

なお、山口のブログを別途以下に開設していますので、訪問していただけると嬉しいです。

https://ameblo.jp/zaq0108yama/entry-12624015454.html
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この度、野田村でも山葡萄の収穫ボランティアを募集することになりました

毎年、10月初旬から、野田村では山ぶどうの作業の最盛期を迎え、農家さんは収穫と、出荷で忙しくなります。

 

今まで、村内でパートさんを頼んで収穫をいたところ、より多くの方にぶどうを摘んで頂きたいまた、野田村の山葡萄畑にきて、収穫の喜びを感じて頂きたいと思い企画しました

来て下さった方にもれなく2kgぶどうお渡しします!

その場で搾ったジュースも飲む体験も行います

 

10月12日から募集します!ご連絡下さい参加を希望される方はメールかお電話でご連絡下さい  

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タイムスケジュール

8:30  陸中野田駅集合

8:50  作業内容説明

9:00  収穫作業開始

10:00 休憩 

10:30  収穫作業開始

12:00  昼食

12:50  午後の参加者作業内容説明

13:00  収穫作業開始

15:00  休憩 

16:00  作業終了

            生ジュース搾り、試飲

16:30  解散  

 

〇昼食は、事前のお申し込みで予約出来ます。

  料金は700円

〇収穫ボランティア参加希望の方は3日前までにご予約下さい

〇参加者全員に毎日2kgのぶどうをプレゼントします。連日で参加される方は、まとめて最終日のお渡しも出来ます

〇山葡萄の計り売りボランティア参加の方のみ特別割引料金は1kg250円です

〇収穫は、軽作業ですが、ボランティア保険を希望される方は各自でご加入下さい

〇お車は、畑に停められます

 

 3月11日(水)、コロナウイルスによる自粛の続くなか野田村の追悼式は献花のみで行われました。

 海の見える献花台に白い菊を納めたとき、発災から綴られてきた思い出が一つ、ひとつその時の心を伴って捲られていくようでした。

 悲しすぎて涙も出なかった朝、無力さに手を握り締めた日々、届けられた優しさに涙が溢れた午後、今となっては全てが大切な時の紡ぎものです。

 ”のだ千年の松”ブログ開設に力を貸して下さったスノーマンさん、郵送される原稿をアップし続けて下さった小原隆史さん、そして今日までお付き合いくださいました皆様に心から御礼申しあげます。

 ”のだ千年の松”発足当時からの夢でありました海岸保全林の植栽は2018年、2019年と2年に渡り、600本の苗木をもって終了しました。

 8日(日)は海を隔てた”ほくほく会主催”のNYでの追悼式に参加させて頂き、発災からの感謝をお伝えすることができました。

 ”のだ千年の松”発足時に描いた夢の成就をもって”のだ千年の松”のブログを終了させて頂くことにしました。

 身勝手な満足で申し訳ないのですが、明日からは新しいステージに向っての一歩を踏み出していきたいと思います。

 10日の帰国と共に開かれた新しい扉の向こう側にどんな世界が待っていてくれるのか、全くの未知数ですが希望を胸に歩いていきます。

   今日までのお付き合い

 本当に、ほんとうにありがとうございました。

 

      のだ千年の松  代表 坂本 久美子

 

 3月11日(水)、コロナウイルスによる自粛の続くなか野田村の追悼式は献花のみで行われました。

 海の見える献花台に白い菊を納めたとき、発災から綴られてきた思い出が一つ、ひとつその時の心を伴って捲られていくようでした。

 悲しすぎて涙も出なかった朝、無力さに手を握り締めた日々、届けられた優しさに涙が溢れた午後、今となっては全てが大切な時の紡ぎものです。

 ”のだ千年の松”ブログ開設に力を貸して下さったスノーマンさん、郵送される原稿をアップし続けて下さった小原隆史さん、そして今日までお付き合いくださいました皆様に心から御礼申しあげます。

 ”のだ千年の松”発足当時からの夢でありました海岸保全林の植栽は2018年、2019年と2年に渡り、600本の苗木をもって終了しました。

 8日(日)は海を隔てた”ほくほく会主催”のNYでの追悼式に参加させて頂き、発災からの感謝をお伝えすることができました。

 ”のだ千年の松”発足時に描いた夢の成就をもって”のだ千年の松”のブログを終了させて頂くことにしました。

 身勝手な満足で申し訳ないのですが、明日からは新しいステージに向っての一歩を踏み出していきたいと思います。

 10日の帰国と共に開かれた新しい扉の向こう側にどんな世界が待っていてくれるのか、全くの未知数ですが希望を胸に歩いていきます。

   今日までのお付き合い

 本当に、ほんとうにありがとうございました。

 

      のだ千年の松  代表 坂本 久美子

 

 「米国が東京からの便を拒否しました!」

 ほくほく会からの連絡を受けて空っぽの頭がクルクルクル。カサカサという回り音は台風の時のかざ車。

 旅行代理店から確認の電話を待つ間、伊丹発のNY便を探す。最悪2便に別れても行ければ良い。覚悟を決めたら不安は半減。

 6人一緒の便が見つかったところで旅行代理店から「航空会社に問い合わせたところ『変更ありません』の返事です。」との連絡。

 ドキドキを隠し持ったままの成田国際空港のロビーで「17時40分発NY行き ON BORD」のアナウンスに6人一緒にハイタッチ!

 ターミナルバスを降りた後に待っていたのは身勝手なクラクションの音とビルの隙間を抜ける風。そう、ここはNY!

 コロナウイルスで自粛が続くなか、ほくほく会主催の3.11追悼式は無事開催されました。岩手県からは野田村からのレポートと松本哲也さんのライブ。49 W 45st 11FLは被災地の復興を願う人々の心に満たされました。

 一杯の「ありがとう」に包まれた11FLは祈りと希望の空間に。

 日本時間10日18時、晴々とした気持ちで三菱UFJ環境財団さんに帰国のご挨拶。復興に全力疾走する野田村到着は予定通りの11日。

 今回の旅は ドキドキ のち 晴れ。

 何年も何年も前から「ありがとうを伝えに行きたい。」と思っていたのですが、ついに行きます。

 現地時間3月8日13時30分からの「NYほくほく会主催の3.11追悼式」に参加します。

 野田村からは絆号で東京に。成田国際空港からは飛行機でNYに。夜行で行くので飛行機は寝るだけ、かな?

 NYなのでグランド・ゼロを訪ねてから追悼式に参加したいと考えています。

 海を越えたNYで追悼式をして下さっている「ほくほく会」の皆様とご支援下さった世界中の皆様にしっかりと感謝の心をお届けしたいと思います。

 今はまだこんなにのんびり、ワクワクでいられるけど、8日当日は緊張でドキドキしているのかな?そんなことも今から楽しみです。

 当日の様子は戻ってから報告します。

 まずは「行ってきます!」

 4月の初め「2月に許可が出た筈なのですが、今日、『全て無効』との連絡が県から届きました。」とのFAXが役場の担当から届く。急いで役場に行き『無効』の理由を尋ねる。

 「はっきりは解らないんです。担当が代わったから、ですかね。」「直接、理由を聞きに行ってもいいですか?」「いや、それは。自分の方からそれとなく聞いてみます。」植樹は2ヶ月後。チラシを作る今となっての『無効』はない。

 5月に入り、県とは未解決の部分を残しながらもチラシが上がる。県との付き合い方も大分解り、一息ついたところで役場の担当からFAXが届く。

 「天という字は上が長いのにチラシの字は下が長い。野田村にはまともな字を書ける大人はいないんですか?恥ずかしい。」とチラシのコピーを貼った下に書かれていた。昨年の年賀状を使った差出人は宮古市佐々木とある。子供が両手を空に向けて広げているイメージで描いたのだが、正しい人には伝わらなかったようだ。

 植樹を2週間後に控えた午後、三菱UFJ環境財団からの資料を再読する。「当財団からの寄贈の他に、」とある。寄贈して頂ける数の苗木しか発注していない。今からでは苗木の追加注文は間に合わない。慌てて依田さんに電話をかける。

 最後まで話を聞いてくれた依田さんが「坂本さん、間違えてないですよ。僕の書き方が悪かった。ごめんなさい。ご心配、お掛けしました。でも、僕は、坂本さんの声が聞けて良かった。」と言ってくれた。落ち着いて改めて読み返すと、完全に私の誤りだった。

 県からの正式許可を頂いた3日後の”天までとどけ!未来への植樹祭”は空を見上げながらの開催となる。「盛岡から久慈までは雨だったのよ。」「田野畑は雨で『どうなっちゃうの?』って思ってたら、野田は濡れてないし。」親しい人が驚きの声を聞かせてくれる。

 6月10日当日、県の林務部の方々は本当に良くして下さった。遠方からの支援者の働きも素晴らしく、「1時間で300本?!」と驚かれた植樹は2歳から92歳までの250名の参加者と大沢園芸さんの多大なる協力で無事終了する。

 植樹後は津軽笛奏者の佐藤ぶん太、さんが強風にも負けず、天までも届く笛の音を聴かせて下さった。復興への祈りを風に乗せるぶん太、さんが一瞬空を見た。つられるように皆が空を仰ぐ。なんと、覆うように広がっていた雲が離れ、一条の光が射している。

 「次に来る時は野田村の曲を作って来ます。」ぶん太、さんの言葉が終わるのを待って「天に届いた!」多くの人が言葉を掛けてくれた。「悲しみを連れ去ってあげます。」と吹いた風はぶん太、さんの笛の音を天国まで届けてくれたのだろうか?

 静かな恵みの雨は夕方に降り出した。

 暖冬とはいえ、コートの下からしのび込む冷気に「さむ、さむ。」と声が出た日々が春を迎えようとしています。

 去り行く冬に寂しさを感じつつも訪ねてくれる春にワクワクを覚えます。

 硬い皮に守られた木々の芽、凍った土の中で目を覚まそうと背伸びの準備を始めた草花。皆、小さいのにいじらしい。でも、それが生命力なのですね。

 私もいつまでも「さむ、さむ。」と縮こまっていないで、せめて朝一番の背伸びくらいはしようかな。

 だって、暦は「立春」。

 「女将さん、皇居の勤労奉仕って知ってる?」由子さんが聞いた。「知らない。」「そう。私は2回参加したのね。今でも母を連れて行ってあげたかったって悔やんでる。」

 後の声は耳に入らない。それ程「勤労奉仕」の一言は胸を貫いた。震災から今日まで私達はどれ程の支援という奉仕を頂いて今日を迎えるのだろう。

 植樹候補地を見るのに役場の駐車場で中原さんと待ち合わせをしていた私は中原さんの顔を見るなり、今朝聞いたばかりの勤労奉仕の話をした。穏やかな中原さんが目を輝かせ、「行けるんですか!?」と驚いたように言った。だらすこ工房に寄り継弥さんに話すと「俺は皇族には全く興味はないの。でも、勤労奉仕には行く。だって一杯、貰ったんだもの。」と言った。

 実現化への手掛かりを求めて由子さんに勤労奉仕の詳細を尋ねる。「女将さん、私は誘われて参加しただけだから良くは解らないのよ、」前置きの後で参加の経緯、奉仕内容を教えてくれた。

 由子さんを勤労奉仕に誘った経験者が支援をしてくれる事になり、野田村からの参加者の費用はクラウドファンドで集めることになる。

 勤労奉仕参加には年齢制限があった。4泊5日、体力も必要だ。震災で家族を亡くされた方、継弥さんのように被災者でありながら支援をした人、今回の活動を次世代に語れる人。参加者リストを作成し、支援側とのやり取りを重ね、村からは8名の参加者が決まる。

 待ちに待った勤労奉仕の許可証が宮内庁から届いたのは、平成28年7月13日、天皇陛下、お気持ち表明の日だった。

 「感謝を伝えるのに他人の金で?」との非難に続き、支援側とのトラブルも生じた。どれにも逆らってはいけない。被災者は参加を切望している。賛も否も受け入れる。それが支援と知らされた。

 支援の布で被災者が縫ったスカーフが12月12日から4日間の岩手のだ千年の松奉仕団の断章となった。揃いの断章を身に付け、カサカサと音をたてる落ち葉を拾う度に震災からの日々が甦る。悲しかった震災の記憶が「ありがとう」の言葉で埋められていく。

 ホテルに戻る信号待ちで「ここに来れたのは津波のおかげ。」悦子さんがボソリと言った。「津波のおかげ?」「津波のおかげでここに来れた。」震災からの心労で夫である棟梁は大腸癌を患った。「皇居に行ぐど!」と元気になってくれたが、平穏な日々ではなかったはず。

 両陛下との御会釈を頂いた13日、「美智子様に声を掛けて貰って、仮設で死んだお父さんも喜んでる。」左加恵さんが言うと「ああ、父ちゃんも天国で泣いでら。」棟梁が重ねる。「一生の思い出よ。」継弥さんの声に「冥土の土産よ。」空を見上げる棟梁が言った。

 「恩返しだ。」と皆、良く働いた。落ち葉掃きも草取りも慣れたものだが、自分達は被災地の代表という誇りが被災者に機敏さを加える。

 「勤労奉仕」という響きに貫かれ、感謝の想いで参加した奉仕活動は、被災地の頂くばかりの辛さを解放し、お返しが出来る喜びを与えてくれた。

 「日本人であるが故に頂けた感謝を皇居の勤労奉仕でお納めし、明日からは復興という未来に向って歩いて行きます。」

 12月13日の両陛下との誓いの言葉は被災地からの「ありがとう」。

 「女将さん、皇居の勤労奉仕って知ってる?」由子さんが聞いた。「知らない。」「そう。私は2回参加したのね。今でも母を連れて行ってあげたかったって悔やんでる。」

 後の声は耳に入らない。それ程「勤労奉仕」の一言は胸を貫いた。震災から今日まで私達はどれ程の支援という奉仕を頂いて今日を迎えるのだろう。

 植樹候補地を見るのに役場の駐車場で中原さんと待ち合わせをしていた私は中原さんの顔を見るなり、今朝聞いたばかりの勤労奉仕の話をした。穏やかな中原さんが目を輝かせ、「行けるんですか!?」と驚いたように言った。だらすこ工房に寄り継弥さんに話すと「俺は皇族には全く興味はないの。でも、勤労奉仕には行く。だって一杯、貰ったんだもの。」と言った。

 実現化への手掛かりを求めて由子さんに勤労奉仕の詳細を尋ねる。「女将さん、私は誘われて参加しただけだから良くは解らないのよ、」前置きの後で参加の経緯、奉仕内容を教えてくれた。

 由子さんを勤労奉仕に誘った経験者が支援をしてくれる事になり、野田村からの参加者の費用はクラウドファンドで集めることになる。

 勤労奉仕参加には年齢制限があった。4泊5日、体力も必要だ。震災で家族を亡くされた方、継弥さんのように被災者でありながら支援をした人、今回の活動を次世代に語れる人。参加者リストを作成し、支援側とのやり取りを重ね、村からは8名の参加者が決まる。

 待ちに待った勤労奉仕の許可証が宮内庁から届いたのは、平成28年7月13日、天皇陛下、お気持ち表明の日だった。

 「感謝を伝えるのに他人の金で?」との非難に続き、支援側とのトラブルも生じた。どれにも逆らってはいけない。被災者は参加を切望している。賛も否も受け入れる。それが支援と知らされた。

 支援の布で被災者が縫ったスカーフが12月12日から4日間の岩手のだ千年の松奉仕団の断章となった。揃いの断章を身に付け、カサカサと音をたてる落ち葉を拾う度に震災からの日々が甦る。悲しかった震災の記憶が「ありがとう」の言葉で埋められていく。

 ホテルに戻る信号待ちで「ここに来れたのは津波のおかげ。」悦子さんがボソリと言った。「津波のおかげ?」「津波のおかげでここに来れた。」震災からの心労で夫である棟梁は大腸癌を患った。「皇居に行ぐど!」と元気になってくれたが、平穏な日々ではなかったはず。

 両陛下との御会釈を頂いた13日、「美智子様に声を掛けて貰って、仮設で死んだお父さんも喜んでる。」左加恵さんが言うと「ああ、父ちゃんも天国で泣いでら。」棟梁が重ねる。「一生の思い出よ。」継弥さんの声に「冥土の土産よ。」空を見上げる棟梁が言った。

 「恩返しだ。」と皆、良く働いた。落ち葉掃きも草取りも慣れたものだが、自分達は被災地の代表という誇りが被災者に機敏さを加える。

 「勤労奉仕」という響きに貫かれ、感謝の想いで参加した奉仕活動は、被災地の頂くばかりの辛さを解放し、お返しが出来る喜びを与えてくれた。

 「日本人であるが故に頂けた感謝を皇居の勤労奉仕でお納めし、明日からは復興という未来に向って歩いて行きます。」

 12月13日の両陛下との誓いの言葉は被災地からの「ありがとう」。

 「女将さん、皇居の勤労奉仕って知ってる?」由子さんが聞いた。「知らない。」「そう。私は2回参加したのね。今でも母を連れて行ってあげたかったって悔やんでる。」

 後の声は耳に入らない。それ程「勤労奉仕」の一言は胸を貫いた。震災から今日まで私達はどれ程の支援という奉仕を頂いて今日を迎えるのだろう。

 植樹候補地を見るのに役場の駐車場で中原さんと待ち合わせをしていた私は中原さんの顔を見るなり、今朝聞いたばかりの勤労奉仕の話をした。穏やかな中原さんが目を輝かせ、「行けるんですか!?」と驚いたように言った。だらすこ工房に寄り継弥さんに話すと「俺は皇族には全く興味はないの。でも、勤労奉仕には行く。だって一杯、貰ったんだもの。」と言った。

 実現化への手掛かりを求めて由子さんに勤労奉仕の詳細を尋ねる。「女将さん、私は誘われて参加しただけだから良くは解らないのよ、」前置きの後で参加の経緯、奉仕内容を教えてくれた。

 由子さんを勤労奉仕に誘った経験者が支援をしてくれる事になり、野田村からの参加者の費用はクラウドファンドで集めることになる。

 勤労奉仕参加には年齢制限があった。4泊5日、体力も必要だ。震災で家族を亡くされた方、継弥さんのように被災者でありながら支援をした人、今回の活動を次世代に語れる人。参加者リストを作成し、支援側とのやり取りを重ね、村からは8名の参加者が決まる。

 待ちに待った勤労奉仕の許可証が宮内庁から届いたのは、平成28年7月13日、天皇陛下、お気持ち表明の日だった。

 「感謝を伝えるのに他人の金で?」との非難に続き、支援側とのトラブルも生じた。どれにも逆らってはいけない。被災者は参加を切望している。賛も否も受け入れる。それが支援と知らされた。

 支援の布で被災者が縫ったスカーフが12月12日から4日間の岩手のだ千年の松奉仕団の断章となった。揃いの断章を身に付け、カサカサと音をたてる落ち葉を拾う度に震災からの日々が甦る。悲しかった震災の記憶が「ありがとう」の言葉で埋められていく。

 ホテルに戻る信号待ちで「ここに来れたのは津波のおかげ。」悦子さんがボソリと言った。「津波のおかげ?」「津波のおかげでここに来れた。」震災からの心労で夫である棟梁は大腸癌を患った。「皇居に行ぐど!」と元気になってくれたが、平穏な日々ではなかったはず。

 両陛下との御会釈を頂いた13日、「美智子様に声を掛けて貰って、仮設で死んだお父さんも喜んでる。」左加恵さんが言うと「ああ、父ちゃんも天国で泣いでら。」棟梁が重ねる。「一生の思い出よ。」継弥さんの声に「冥土の土産よ。」空を見上げる棟梁が言った。

 「恩返しだ。」と皆、良く働いた。落ち葉掃きも草取りも慣れたものだが、自分達は被災地の代表という誇りが被災者に機敏さを加える。

 「勤労奉仕」という響きに貫かれ、感謝の想いで参加した奉仕活動は、被災地の頂くばかりの辛さを解放し、お返しが出来る喜びを与えてくれた。

 「日本人であるが故に頂けた感謝を皇居の勤労奉仕でお納めし、明日からは復興という未来に向って歩いて行きます。」

 12月13日の両陛下との誓いの言葉は被災地からの「ありがとう」。