子供の頃にみかんやりんごの果汁で紙に文字や絵を書いて火で炙るとその文字が浮かんできましたよね。

コースの学びって、あぶり出し文字のイメージかなーと思いましたので、それを例えにちょっと書いてみたいと思います。

コースは、隠されている自我をあぶり出し、それを見つけて取り消していくものだということです。

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あぶり出し文字のイメージを例えに使うなら、

 

白紙の紙(心)に、自我の間違った考え(果汁で書いた文字)を書き込んで、それを自分自身に教えて信じ込み、それが当たり前になってしまっている。

そして、果汁で書いた文字は乾燥して隠し文字となり、何が書いてあるのか認識できないから「ほら、白紙のままだよー」と偽ったままでいられる。

でも、「なんか変だぞ?」と気づいたとき、コースの教えを当てはめて、白紙のように見える紙に自分は何を書き込んできたのかを炙り出して明らかにしていく。

本来は白紙すらないから何も書き込むこともできないのに、

わざわざ白紙を置いて、果汁を使ってそこに書き込むことができると信じていて、しかもそっちの方が正しいと信じている。

そして、それらを全部ひた隠して、白紙のまま(無垢なる顔)だと偽っている。

そんなことをやっている私たち(自我)が、コースの教えを当てはめて見ることにより、隠した文字をあぶり出し、これらが全部間違っていて、「本当は書き込むこともできないのに書いたと信じてる」というところを見つけ出し、「なーんだ白紙のままだったのかー」「自分でそれが可能だと信じていただけなのかー」と取り消していくのが赦しであり、奇跡と言えます。

そして、その時、

本当はこの白紙すらなかったのかーという答えを受け取れることもできるのです。

 


なので、私たちがすることは、自分で書いたと信じている隠し文字をあぶり出して、白紙のままだったと訂正していくことをやっていくわけです。


しかし、それがある・可能だと信じている今の私たちにとっては、

それをしていくことは非常に恐怖であり、恐ろしいことなので、そこに気づかないように、炙り出させないように、全力で防衛し続けています。

その自我の力動(=神の子の信念の力)に逆らって、学んでいっているわけですから、思うように進んでいかないのも当たり前だということです。


なので、コースの学びって、白紙の上に愛や光を書き込んでいくものではないということがよくわかります。

白紙のように見えるけれども、

すでに間違いが書き込まれているところに、愛や光を上書きしていったところで、間違いは間違いのままそこに残されているのです。

 

それは聖霊と共に直視するなら(炙り出す)わかってきますが、そうしなければ隠されたままとなりです。

だから、コースの学びは自分自身に愛や光や真理を上書き教え込んでいくものではないということです。

なぜなら、真の私たちはそもそもが愛や光や真理そのものであり、その自分は一度もそうでなかったことなどないからです。

なのに、私たちは今、それを拒絶して、そうではないと信じこんでいるだけなのです。


なので、間違いを書き込んでおきながら、それがなかったことにされているところをあぶり出して見つけ出し、それはなされていなかったと訂正していく道なのだということです。


そして、個人的にこのようなコースの理解に非常に参考になったのが、まるでイエスが私たちに語りかけるかのような文書で綴られている「奇跡講座テキスト第4章Ⅳ.こうである必要はない」です。

ここの見方がまさに実践のポイントと言えるのではないでしょうか。

イエスがどれだけ優しく真理から語りかけていても、それを拒絶し続けている自分を認識していくことです。

私たちはこうである必要がないのに、こうでありたい=自我のままでいたい、苦しんでいたい、恐れていたい、分裂したままでいたい、狂ったままでいたいと望んでいるというところをあぶり出していく(=認識していく)のです。

それが私たちがやっていくことだと認識しています。