開かれた心=オープンマインドって、
「私は何が最善かを知らない」
「私は何もわからない」
ってところにあるんだなー。
同時にそこに深い平安がある。
「私は何が最善を知っている」
という考えを信じるなら、たちまち自分自身を幽閉し、苦しめることになる。(閉ざされた心)
そして、私たちはいかに
「自分は最善を知っている」というところから
ジャッジ・攻撃し続けているかがわかる。
それによってこの世界のドラマを夢中になって見続けることができるからなんだ。
それを超えていくには、「私は最善を知っている」という信念を取り消していくしかない。
そして、取り消すためにはその絶対的に正しいと思っている自分の考えを疑っていくんだ。
自我と同一化した心=幽閉された心に隙間を開けるには、それを疑っていくことだからだ。
それが聖霊と共に見るということ。
だからこそ疑問視は有益だと言えるし、
私たちには疑問視するしか出来ないんだということがわかってくる。
でも、それは自分で実践していかないと、
疑問視がなぜ有益なのか、
なぜそれしか出来ないのか、
ということも全く意味がわからないだろう。
そうしてついつい、
コース(奇跡講座・奇跡のコース・ACIM)に書いてある言葉通りに実践して、
聖霊に丸投げしたり、自分でやろうとしたりして、閉ざされた中でなんとかしようとし続ける。
(私もそういうことをしてきたし、今もしている時もある)
そうしている限り、苦しみや葛藤からは逃れることはできず、平安が訪れることはない。
そして、それを自ら望んでやっているというところも隠されたままとなり、間違いが取り消されるチャンスを見過ごすこととなる。
私たちは、「何もわからない、私は何も知らない」という気づき(悟り)によって心が開かれ、「ありのままに見る」ということが可能となるだろう。
という気づきのシェアでした。