2023年もよろしくお願いいたします。
私(KUUKA)がコースを学び実践していく上で支えとなってきた言葉は、
過去の勉強会でもシェアさせていただいたり、「掲示板みんなの広場」で先月もコメントに書いたばかりですが、
もはや定番とも言えるマニュアルの用語解説の「エピローグ」の第1段落です。
ひとたびこの旅が始まればその終わりは確実だと言うことを、忘れてはならない。
途中で疑いが何度も飛来するだろう。それでも旅が終わることは確かである。
神から任されたことを成し遂げられないものはいない。
このことを忘れた時には、あなたは神の言葉を抱いて神と共に歩んでいると言うことを思い出しなさい。
これほどの希望が自分のものだと言う時に、絶望できるものなどいるだろうか。
絶望のように見える幻想の数々が訪れるかに見えるかもしれない。
しかし、どうすればそれらに欺かれずにいられるかを学びなさい。
どの絶望の背後にも実相があり、神が居る。
神の愛が道の一瞬先にあり、そこで全ての幻想が終わると言う時に、なぜあなたは実相を待ち続け、それを幻想と交換してしまおうとするのだろうか。
終わりは正しく確実であり、神に保証されている。
ほんの一歩先で至聖なる存在が、世界の向こう側へと続く往古の扉を開こうと言うときに、一体誰が命なき偶像の前に佇んでいたりするだろう。
奇跡講座マニュアル用語解説エピローグ第1段落(M.C.ep.1)
どんだけ好きやねん!と、自身に突っ込みたくなるくらい、色々と支えられ、励みになる一説です。
しかし、以前はこの第1段落しかピンと来なかったのですが、最近はそれ以降の段落も染み入るようになってきました。
そして気づくのは、このエピローグは、私たちはこのようにして帰っていくんだよという私たちの旅路の道程が段落ごとに示され、一言一句語りかけられているように感じます。
さらに、ここにあるように本当に「どの絶望の背後にこそ実相(実相の反映・平安)がある」のです。
「道の一瞬先」「ほんの一歩先」に幻想の終わり、世界の向こう側があるのです。
それが真にわかるなら、どうして自我を選んだりするでしょうということがわかってきますが、、、。
でもまだわかっていないので、やるべきこと(訓練)があるわけなんですよね。
というように、
本当にそうなんだ、本当にそのように歩むんだと、体験的に実感できるようになってくることにより、信頼が増していくのでした。
あと、ワプニック博士の解説でもりGさんと学び初めた頃に、
「喜びのない場所では、自分がそこに居ないと気づく以外にどのようにして喜びを見つけられるだろう。」(T-6.II.6:1)
(JACIMサイト別館ビデオ:#43 奇跡講座は人生の楽しみを奪うのか〜その1 参照)
という引用文を見て、すごく衝撃を受け、そのように見たいと心から思い、形而上学を学んでいくモチベーションとなりました。
最近は、
あなたは自分が正しいことと、幸福であることのどちらを好むだろうか。(T-29.Ⅶ.1:9)
とあるように、「正しさか幸せか?」と自分自身に問いかけることにより、幸せ(平安=聖霊)を選ぶモチベーションとなっています。
正しさ(自我の正当性=神の拒絶=自分自身との戦い)を主張することの苦しみと、そこから一歩退いた時の幸せ・平安との対比を見比べるなら、自ずと正しさよりも幸せの方を選択したいと望むようになるので、
正しさを主張している自分に気づくとき、「正しさか幸せか?」と自分に問いかけます。
すると、正しいより幸せ(平安・自由)を選びたいと自ずと答えに導かれるのです。
なので、今は「正しさより幸せ」という言葉がキャッチコピーとなっています。
そんな感じです。
ありがとうございました。
ACIM・奇跡講座・奇跡のコースを学ぶ/純粋非二元を生きる
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