今日は収録に行ってきました。一人でした。一人現場の「ゴールデンボンバーさんが来たら盛り上げてくれるっしょ!?」的な期待に応えるのがすっごい難しくてもう心折れまくり。めっちゃ楽しかった(終始テンションが高くてちょっと鼻血出そうだった)けど、終わってから「あっ、あの場面ではこういうリアクション取ればよかったのかも!?」と悩みまくり。分かってるんです。貯金が足りてないんです。幼少期に殆ど見ていなかったバラエティー貯金。ありがたいことに毎日忙しくさせてもらっていますが、夜な夜なテレビを見て研究していきます。僕の人生はこの年になってよちよち歩きを始めました。



その後、鬼龍院 翔のひとりよがり4に行ってきました。テレビの収録を終えてからライブに駆け付けるってなんか格好良くないですか? 実際は鬼龍院さんの凄さを改めてまじまじと感じて「何をしているんだ俺は!働け!」と思いました。これから年末にかけて鬼龍院さんは常軌を逸する忙しさだと思います。きっと強い責任感と人一倍のサービス精神を持って成し遂げるでしょう。彼がすごいのは当然で、一人でステージに立つ彼の歌を聞いていて、僕は死にたくなりました。悪い意味ではなく、そこに人の心を動かす歌があったという意味です。



「歌う」ということは「訴う」ということだと思いました。歌うことを宿命付られてしまった者の全存在を掛けた訴えです。世界に対しての明確な意思表示であり、執念のアンチテーゼです。実は『振り返る』というタイトルの記事でツアー中の演劇から読み取れる鬼龍院翔の考え方について書こうと思っていたのですが、何度か書いてみたはいいけど「こんなの理解してくれないだろうし別にいいや。そもそも僕ちゃんの自己満足だし」と諦めたのでした。



「こういうものを作ったらウケるんじゃないか?」とか「こういうことを歌ったら泣けるんじゃないか?」という誰かの空想で出来た歌に価値なんかないんです。こういう二人っていいよね、とか。こういうシチュエーションっていいよね、とか。そんな電気信号のような快楽でヨガってちゃ駄目なんです。一人の人間が現実に感じた痛み。現実にある悪。現実にある手段。現実にある許し。現実に零れた涙。現実では言えなかった言葉。そういうもの以外に何の意味もないんです。



歌はご飯とは違うから。聴いてしまったからには人生が変わるものなんです。もし「本当の歌」があるならば、それは作った人間の人生が変わる歌です。歌はご飯と違うから。商業とか関係なくてどうしてもその歌を作らなかったら駄目だったんです。訴えなかったら死んだかもしれないんです。だから僕たちは鬼龍院 翔に共感するんです。歌の受け取り方は人それぞれ。だけど、僕はそう思いましたよ。



何も言わずに飲み込んでいるならまだしも、何も言えることがない僕ちゃんは死にたくなりました。そんな僕ちゃんは今日からTOKYO MXで始まった『ゴールデン名曲劇場~木曜に金爆~』をリアルタイムで確認出来ませんでした。きっと見たら死にたくなります。僕ちゃん、歌が上手くなりたいです。めっちゃ上手くなくていいんで、最低限人並みに上手くなりたいです。死にてー!!!






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あっ、でもFNSの楽屋から見えたビルに点灯されたクリスマスツリーが綺麗でロマンティックだったから生きるわ。うぱ。