対帆楼会談、高杉晋作は居た | 日本の歴史と日本人のルーツ

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西郷隆盛(正しくは、当時は西郷吉之助)と高杉晋作が、あの有名な「薩長同盟のための西郷隆盛と桂小五郎(正しくは、当時は西郷吉之助と木戸寛治)の会談」より一年以上早い元治元年12月11日、馬関(下関市)稲荷町の料亭・対帆楼(大坂屋、現東京第一ホテル下関の場所、参考)において、筑前黒田藩士の月形らとも同席して会談を持った云われているが、今まで長州側の証言や資料が発見されていなかった。

西郷隆盛が「対帆楼会談」に出たのは間違いなく、長州側の五卿の藩外移転や征長軍へ恭順姿勢を確認し、幕府本営へ報告し、幕府は撤兵命令を下したと考えられる。そうでなければ、長州藩は取り潰されていた。


最近、以下のとおり、高杉晋作が出席した会談はあったと確信できる記述を長府藩家老、三吉周亮の日記から発見した。


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この東京第一ホテル下関の説明では対帆楼会談は出ていない。

慶応元年1月1日会談


長府藩家老の三吉周亮(みよしかねすけ)によると、慶応元年1月1日に西郷隆盛と高杉晋作を下関、旅宿伊勢屋(伊勢小、極楽寺付近、参考)で会談させた。と日記に記した。この日記に「是(長)再(ヒ)薩ト和合ノ初メナリ」と記している。

ここで気になる言葉に「再(ヒ)」がある。私の解釈としては、西郷・高杉の対帆楼会談の成功で第一次長州征討の全幕府軍が打合せどうり撤退することになったことを最初の薩長和合とすれば、1月1日の伊勢小での会談からスタートし翌年の木戸・西郷会談による薩長同盟成立に向けた道程が再度の薩長和合と理解できる。

つまり、この「再(ヒ)」が、対帆楼会談で西郷・高杉が顔を合わせたことを証明している。

元々仲が良かった両藩が一度仲違いし、再度、仲良くなると言う解釈は出来無い。その理由は、元々、薩長は仲が良かった時期が無いからである。地理的にも無理だが、外様大名の薩摩と長州が藩の枠を越えた人的、経済的な相互交流は従来から無い。また、薩摩は百姓の信仰の自由を禁止し搾取する閉鎖的武士独裁の藩で公武合体が基本方針であり、一方、長州は百姓が信仰する一向宗を取り込んだ融和的政治の藩で藩民一体で倒幕が基本方針であり、方針の一致は無かった。



参考


末松謙澄、『防長回天史』の嘘


対帆楼会談は無かったとした。西郷隆盛と高杉晋作は終生面識なし、と言い切っている。伊藤博文や税所篤だけでなく、井上馨や西郷の弟の西郷従道にも直接訊いて確かめたと言う。


慶応元年1月1日の西郷隆盛と高杉晋作の会談が有り、終生面識は無いは嘘と分かる。


村田峰次郎、『高杉晋作』


対帆楼会談はあった。村田は、西郷の随行者黒田清綱からも話を聞いたとし「これ髄なる証跡にして、最早別に争ふへき事柄にあらざるべし」と、全面的に会見肯定の立場である。


著者の村田峰次郎は、幕末長州藩立直しの祖・村田清風の孫としても知られている、防長史の権威です。安政4年萩生まれ。山口明倫館に学び、明治17年、内閣で伊藤博文の憲法制定事務に参加。


その他、対帆楼会談が載っている文献多数。例えば、海音寺潮五郎の著書に、12月23日付の西郷南洲から小松帯刀あての書状にある。とある。


対帆楼会談で西郷南洲と高杉晋作が会談したことが明らかにされていない事情

元治元年12月11日の対帆楼会談について、西郷南洲と高杉晋作の会談が長州側の資料や証言者が不幸にも無かった理由として、長州藩諸隊士のメンツから西郷南洲との屈辱的な会談を記録しようと思わなかったのであろう。

翌年1月1日の西郷南洲と高杉晋作の伊勢小での会談は、将来の薩長同盟へのスタートとして推進した長府藩家老三吉周亮の意気込みとして、日記に記されたものであろう。また、対帆楼会談と言う前例があるからこそ、1月2日の決起の前日に急遽、会談がもてたと考えられる。




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