大庭伝七 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

大庭伝七邸跡地、下関市長府惣社町

忌宮神社の南、毛利邸の東に位置している。大庭伝七は白石正一郎、白石廉作の実弟で、天保3年(1832)白石家に生まれた。名は景明、正一郎の20歳離れた末弟、長府大年寄大庭家の養子となる。勤王志士と交わり、特に高杉晋作を支援する。元治元年(1864)11月の高杉晋作の筑前亡命に同行する。維新後、太政官に出仕、明治18年9月13日、54歳で東京に没した。伝七には3人の息子がおり、長男は景一は陸軍少佐、次男は景陽は維新史料編纂所、そして3男の景秋は、ロシア通の大正前期のジャーナリスト大庭柯公(おおばかこう)である。柯公はロシアでスパイ罪で投獄され釈放後、消息不明となるが、名誉回復している。
{EE932A1D-681C-46B6-BA09-0CC681E62671:01}
向こうが毛利邸

{8854A894-FA3B-44C5-9051-85346794130B:01}