何故、長州藩の百姓は草莽崛起に応じたのか | 日本の歴史と日本人のルーツ

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何故、長州藩の百姓は諸隊に参加し、草莽崛起に応じたのか?当時の社会全般としては経済的破綻や外来伝染病の蔓延があり、これらの阻止のための倒幕攘夷は理由になった。また固定身分制度の廃止、信教の自由なども理由として考えられる。しかし、それだけで関ヶ原の合戦に負け防長二州に押し込められた武士以上に生命を賭けられるだろうか?


他藩に比べ社会状態は良く、不満は逆に少ないはずである。階級闘争でも無かった!奇兵隊の中にも身分区別は厳然に存在し、高杉晋作ですら武士意識があり、また大部分の百姓、特に農民も自分達の身分を否定していなかった。今でも農村内の元士族は名家として扱われている。やはり、もっと大きな理由があるはずであろう。


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高杉晋作は一族が曹洞宗亨徳寺の檀家で、本人は白衣観世音菩薩を信仰しながら、同時に菅原道真公(天神、天満神)を信仰し、天皇に一心に忠義を貫く道真公を守護神として奇兵隊をまとめたことは、すでに指摘した。

吉田松陰については、下記URLのブログをそのまま引用するが、神明を崇め尊ぶべし。大日本(やまと)と申す国は神国と申し奉りて、神々様の開き給える御国なり。然(しか)ればこの尊き御国に生まれたるものは、貴きとなく、賎しきとなく、神々様をおろそかにしてはすまぬことなり。しかし世俗にも神信心という事する人あれど、大てい心得違うなり。神前に詣でて拍手を打ち、立身出世を祈りたり、長命富貴を祈りたるするは皆大間違いなり。(略)さてまた仏と申すものは信仰するに及ばぬ事なり。」『児玉千代宛書簡』野山獄にあって、児玉家に嫁していた一番上の妹、千代に宛てた手紙の一節。このように松陰先生は神道への帰依を述べている。しかし、同時に浄土真宗本願寺派泉福寺の門徒でもあった。

高杉晋作、吉田松陰先生は長州藩の武士の思想家であり、神道への帰依で尊皇、倒幕、攘夷への大義名分はあろうが、百姓には何か別の大義が必要であろう!

諸隊を構成する草莽崛起の主体である百姓はどうであろうか?ここでは武家、公家以外の被支配層を百姓と定義するが、百姓も何処かの寺院の檀家であり、この寺請制度から解放され尊皇の神道に帰依したい希望の民は参加の意義があろう。

その他、仏教徒については、長州藩においては阿弥陀仏を本尊とする浄土真宗本願寺派の門徒が多い。浄土真宗本願寺派(西本願寺)は戦国時代から一向宗とよばれ織田信長、徳川家康、前田利家などから弾圧され、毛利元就からの援助で石山本願寺が持ちこたえた歴史がある。ここには毛利家と強く結びついた安芸門徒があった。さらに徳川幕府が宗派の分断などの干渉を幕末まで行っており、本願寺派の僧侶が倒幕攘夷運動の主体として活動していた。例えば海防僧と呼ばれた僧侶、釈月性、宇都宮黙霖、大洲鉄燃などが最も貢献した。ところで、吉田松陰の吉田家は萩の浄土真宗本願寺派の泉福寺の檀家であり、本人も含め今でも一族の位牌があるが、当時の泉福寺の住職の甥が僧侶、釈月性で倒幕攘夷運動の先駆者であり、吉田松陰先生への密接な影響力があり草莽崛起を決心させた。ちなみに、泉福寺は毛利家と共に萩に移ってきた。また、宇都宮黙霖は吉田松陰と文通し、倒幕を決心させた。大洲鉄燃は説法が上手で世論を倒幕攘夷に向け、奇兵隊を高杉晋作と共同創設した。

また彼ら門徒である百姓は八幡神、天満神などを氏神として信仰した。共通して農耕、豊穣の神であり、また八幡神は応神天皇で阿弥陀仏に同一視され、天満神も極楽浄土への往生を促進するご利益がある尊皇の菅原道真公であるなど相互に矛盾は無い神仏習合であった。ここに理解の鍵がある。ヤマトの国の神への信仰は自ずと尊皇攘夷、阿弥陀仏の信仰につながることになり、ここに草莽崛起の大義名分がある。ちなみに、奇兵隊は菅原大神(天満神)、長府の報国隊は八幡大神(八幡神)と伊勢大神を守護神とした。


参考

当時、復古神道と呼ばれる神道は賀茂真淵や本居宣長らの国学者によって体系づけられ、平田篤胤や本田親徳らによって発展した。水戸学と結びつき、幕末の尊皇攘夷のイデオロギーに取り入れられた。外来の仏教の影響を受ける前の日本民族固有の精神に戻ろうとするもので、「仏と申すものは信仰するに及ばぬ事なり」と松蔭が述べるように、復古神道の高まりと、外来宗教への攘夷論ともあいまって、維新後、廃仏毀釈の運動につながった。(下記URL引用)

尊皇思想については吉田松陰先生は高山彦九郎からの影響がある。松陰先生の号は彦九郎の戒名、松陰以白居士かららしい。

幕末当時、長州藩でも例えば防府天満宮、忌宮神社、住吉神社などは神宮寺であったし、その他の神社も別当寺に一括管理されていた。安芸の宮島の厳島神社、四国の金刀比羅宮もお寺であった。また神道の信者であっても必ず何処かの寺院の檀家とされる寺請制度の下にあった。

明治の初年に神仏分離され、赤間神宮などは元の阿弥陀寺を廃止して、新たに神社を作った。第二次世界大後、神仏習合が復活したり、神道、仏教両界とも多様な発展をとげている。

著者の地区(下関市内、北浦地区内)では、現在、浄土真宗のお寺が一つ、曹洞宗の尼寺が一つ、八幡宮(天満宮、山王社、ほか合祀)が一つあるが、他地域も同様に隆盛を極めている。隣りの地域の浄土真宗の寺院の襖の下張りなどから、維新の費用精算などの資料が出て来たりしている。