力士隊と長府功山寺の決起 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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長府功山寺の決起に大きな貢献が有った力士隊、しかし勇力隊、角力隊、盤石隊と言う隊名が交錯して良く分からなかったので整理してみた。

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角力隊(すもうたい)
文久3年(1863)11月、山脇勝五郎を頭とした長州藩江戸藩邸お雇い大相撲力士と地元の草相撲の力士らにより遊撃隊付属の角力隊として結成された。元治元年(1864)9月より伊藤俊輔が隊長に任命された。11月17日五卿が長府に入り、諸隊が結集した。12月15日深夜の長府功山寺の決起から力士隊約50人の中に属した。しかし12月22日以降、裏切って脱走した山脇勝五郎以下の29人は萩の俗論派政府の撰鋒隊に属して内訌戦に敗れた。処刑は免れたが慶応2年(1866年)6月、四境戦争では、勇力隊、隊長山脇勝五郎、約40人として御楯隊の下、遊撃隊などと共に芸州口を守備、北越戦争まで転戦している。(「山口県史」によると創設当初は「角力隊」であった。)


盤石隊
元治元年(1864)11月17日の五卿が長府に入ったとき、既に長州藩の支藩・長府藩でも長府と安岡の力士35人による独立した隊があり結集していた。慶応元年(1865)3月15日から正式に報国隊(長府藩士の部隊)付属の盤石隊となった。小倉戦争、北越戦争を戦い、帰還時、奇兵隊、報国隊と一緒に御所で慰労の言葉がかけられた。さらに京都市中を行進し、長州藩藩主毛利元徳、長府藩藩主毛利元敏からも慰労の言葉を賜った。戦死者5名は桜山招魂場に祀られている。



力士隊
元治元年(1864)12月15日深夜の長府功山寺の決起に「遊撃隊100人・力士隊約50人の150人」(従来、通説では遊撃隊50人、力士隊30人の80人。東行庵、平成元年発行の新資料には200人とある。)により下関萩藩新地会所を襲撃した。力士隊は伊藤俊輔が率いたが、12月22日に萩の俗論派政府から山脇勝五郎以下、角力隊士29人を引き抜かれ力士隊は残り約20人となった。



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高杉晋作の功山寺の決起
元治元年(1864)12月15日深夜の長府功山寺の決起に「遊撃隊100人・力士隊約50人」により下関新地会所を襲撃した。伊藤俊輔が率いる力士隊は、12月22日に29名が脱走し、残り約20人となった。翌、慶応元(1865)年1月2日、高杉晋作は伊藤俊輔と再び遊撃隊を率いて下関を挙兵し、その趣旨をあきらかにした檄を発し、集古隊、壮士隊、農兵隊、好義隊、盤石隊(長府と安岡の力士)の各隊も司令下に入る(下関市史)。同時に力士隊の名前は消滅した。1月15日大田の正義派諸隊陣営に合流する。大田・絵堂の戦いでは萩の俗論派政府の軍側に属した角力隊とも戦い、内訌戦に正義派諸隊が勝利した。



参考

山口県史
長州諸隊一覧、山口県編・平成13年
下関市史
やすおか史誌
桜山顕光録


長府の忌宮神社境内の荒熊稲荷神社には毎年11月3日に三日相撲の興行がある。また神社脇に三日相撲放駒資料館がある。


毛利氏の先祖は相撲の元祖、野見宿禰であり、菅原氏、土師氏も毛利氏と同族です。


報国隊の付属として、僧侶からなる坊主隊、百姓からなる朝市隊、吾往隊、力士の盤石隊などがあった。












決起時の人数について「林家家内行事録」に記録があり、200人とあった。P107、東行庵発行、高杉晋作と奇兵隊、平成元年発行