何故、百姓は正義派を支持したのか | 日本の歴史と日本人のルーツ

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長州藩内が正義派(討幕派)と俗論派(恭順派)に二分して対立しているとき、藩内の百姓のスタンスはどうだったのか?高杉晋作の長府功山寺の決起にすぐさま応じたのは脱藩浪士が多かった遊撃隊と力士隊であったが、次々に諸隊が正義派として立ち上がって内訌戦を勝利した。

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何故、百姓は正義派を支持し、百姓が多くを占める諸隊も正義派についたのか?実は、僧侶、釈月性の遺志をついだ青狂草堂派の大洲鉄然と同志の西本願寺の僧たちが護法、護国のために正義派を支持すべきことを武士、百姓に説いて廻ったのである。さらに、他藩においても同様な長州正義派を支持する世論工作活動があった。


参考

本願寺門主に召されて京へ上り、「護法意見封事」(後に「仏法護国論」として全国の本願寺派一万寺に配布した)を上程したり、また長州藩主にも「意見封事」「内海杞憂」を建白した。