功山寺の決起、新地会所や三田尻の襲撃は本当か? | 日本の歴史と日本人のルーツ

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下関、萩藩新地会所は高杉晋作の功山寺の決起の時に襲撃されたことになっているが、本当か?

元治元年12月16日早朝、長府の功山寺から襲来した高杉晋作、遊撃隊、力士隊の200人が会所に空砲をうちこんだら、会所の取締役の根来上総が解錠したことになっている。

根来上総(1816年7月26日-1892年2月7日)は長州藩家老の家柄であった。高杉晋作らが功山寺で決起した際に、根来は会所の取締役であったが高杉晋作の要求に応じた。

これ以降の根来上総の行動であるが、高杉晋作らに協調して藩政を主導し、明治3年山口藩大参事に任じられたと言う。つまり隠れ正義派で、自主的に解錠したと考えて差し支えない。

ところで、越荷方は襲撃しなかったが、つまり味方が内部に居なかったのであろう。



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それでは、三田尻海軍局の軍艦3隻を無血奪取したと言うが、これもどうか

海軍局は初めから正義派の諸隊の一つと考えられ、トップの松島剛蔵はバリバリの尊皇攘夷の志士であった。松島は萩の俗論派に囚われており救出を待っていた。事実、高杉晋作の部隊が三田尻に到着後、直ぐ指揮下に入っている。軍艦3隻が萩に行き威嚇したが、残念ながら12月19日に刑死した。とはいえ俗論派の軍勢の一部を萩に引き止め、大田絵道の戦いで軍勢の分断には成功した。


まとめ

決起して直ぐ危ない所は襲撃せず、先ずは確実に力を付けることを考えると言うことです。『防長回天史』は晋作の行動は時に「人をして訝らしめた」と言うが、後世、冷静に分析すると、冷静、沈着、綿密な戦略家としての高杉晋作のイメージが浮かび上がる。

参考







④ 三田尻海軍局の水兵、船大工たちは村上水軍の末裔で一向宗の門徒であり、主家の毛利家、本願寺とも通婚関係にあり、石山本願寺以来の密接な関係があり、倒幕攘夷で一致している。


⑤ 功山寺の決起から新地会所までのルート(参考)


⑥ 根来上総は正義派だった(参考)