長府藩家老、三吉周亮 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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三吉周亮(みよし かねすけ)
[天保12年12月3日(1842年1月14日)~明治36年(1903年)6月1日]
墓所   功山寺

五卿の長府滞在の受け入れ、功山寺の決起に協力、長府藩の公金、武器の提供、西郷隆盛と高杉晋作の会談実現、薩摩と長州の和解推進(坂本龍馬、中岡慎太郎、月形洗蔵、早川養敬などとの交流)がある。

天保13年、長府藩家老三吉家に生まれる。元治元年、第一次長州征討に際し、長州本藩の俗論派台頭により、山口より逃れてきた三条実美ら五卿を功山寺に匿う。薩長和解を進める。高杉晋作による功山寺の決起に対し、諸藩とつながりのあった周亮は長府藩主より切腹を命じられるが、福岡藩家老加藤司書のとりなしにより中止となって諸隊鎮撫を命じられるが動くことはなく、西郷隆盛と高杉晋作の会談の実現など活躍した
。慶応元年の正義派の勝利の後のこと、薩長同盟締結に向け下関に滞在した坂本龍馬と交際し、長府藩における龍馬の理解者の一人であった。慶応3年、長府藩が英国から購入した軍艦満珠艦の艦長に就任。維新後は、新川県参事、鳥取県権令、豊岡県権令を歴任。明治36年、死去。


参考

薩賊会奸と言って薩摩藩と会津藩を嫌う長州藩士に薩長和解に方向を変えさせたのは、仲介者として土佐脱藩浪士の中岡慎太郎や坂本龍馬、福岡藩の月形洗蔵や早川養敬の名前が有名だが、長州側の窓口として長府藩並びに家老、三吉周亮が五卿の長府滞在以降からクローズアップされる。