真っ赤な夕日が、玄界灘に通じる参道の正面に沈んだ。福岡県福津市の宮地嶽神社で1年に2回、2月と10月の数日間だけ見ることができる幻想的な眺め。あかね色に染まった空と海と街を背景に、親子連れの影がまっすぐ伸びた。同神社では、参道のほぼ真正面に日が沈む18日に、香灯明祈願祭を行う。午後6時から境内に約3千本の竹灯をともし、神楽を奉納する。=2014/10/18 西日本新聞=
さらに、宮地岳の山頂に日の出参拝所がある。ここに太陽、天照大神信仰がうかがわれる。東方の日出づる国は古代より、ヘブライの民の末裔と云われる秦氏にとって「天国」を意味し、さらに東への移動を示唆している。
ちなみに、参道の本殿方向を延長すると、正にヤマト、伊勢方向になっており、現在の国名である日本の起源との関連が示唆される。また、参道の西方向は相島の石積古墳群を向いており、古墳群と境内地は同時期に位置調整されたものであろう。
高千穂のクシフル峰
高天原から高千穂のクシフル峰に降りるとは、ヘブライ語で『アララト山の麓のタガーマハランからシオンの丘の向こうの墓にたどり着く』、つまりエルサレムの神殿の嘆きの壁に行くということ。高天原での生活から出発して色々苦労して入植地(嘆きの壁、信仰対象の神社)にたどり着くことを示唆する。鹿児島県、宮崎県にある様な具体的な場所がある訳では無かった。多くの神社にある長い参道がこれを象徴しているかもしれない。
一柱騰宮、筑紫国の菟狭嶋、すなわち宗像大社に立ち寄られた
筑紫の宇佐(うさ、菟狭)嶋は現在の神湊の北端の草崎(くささき)の「くさ」と転化しても自然であり、また笠沙の岬の「かささ」とも自然につながり、筑紫の日向→速吸之門→菟狭嶋→岡の水門→宇佐(豊前国、航路として必ず通る)→→の東征航路となる(筑紫国の菟狭嶋)。
ただし、神武天皇の東征で、筑紫の日向から岡田の宮までは陸行した地元伝承もある。八所宮(福岡県宗像市吉留3186)に当時の云われが残っていた。八所の神は、神武天皇御東征の折、姿を顕し赤馬に乗り皇軍を先導されたと伝えられている。この事からこの地域一帯を「赤馬の庄」(現在の赤間)と言い、又吉き所に留り給うたが故に社殿の地を「吉留」と言う。