神武東征出発の地は筑紫の日向(ちくしのひむか)であった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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福津市の宮地嶽神社の参道は海岸に真っ直ぐのびているが、年二回、真っ赤な美しい夕日が参道に注ぎ込む。また、宮地岳の山頂から日の出を参拝した。ここから、この地を宮地嶽神社の高天原出身者はヤマト政権内で筑紫の日向(ちくしのひむか)と呼んだのであろう。出雲を除き、他の高天原は日向から上京する途上にあり、また応神天皇の東征と絡めて、神武東征の物語を作るつもりであったのであろう。


正しいルートは、筑紫の日向(ちくしのひむか)→八幡高天原(岡田の宮又は岡の水門)→梅ケ峠高天原(早鞆瀬戸、関門海峡)→宇佐→以下、従来どおり。


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これなら、豊予海峡(速吸の門)の通過、関門海峡の二回通過が無くなり、無理が無い。当時、宇佐には何も無いが、航路の関係でほぼ必ず訪れることになり、結果、宇佐神宮が将来、創建されることになる。記紀を編纂した当時、宮崎に日向国(ひゅうがのくに)があり、勘違いしたと言うか、宮地嶽神社の高天原出身者しか分からないローカルな名前を理解出来なかったのであろう。


ここ宮地嶽神社の北にある対馬見山は最も対馬、朝鮮半島に近く、航路的にも宗像氏の海北道中経由で朝鮮半島から最短距離にあり、韓国岳に相当するであろう。


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参考


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真っ赤な夕日が、玄界灘に通じる参道の正面に沈んだ。福岡県福津市の宮地嶽神社で1年に2回、2月と10月の数日間だけ見ることができる幻想的な眺め。あかね色に染まった空と海と街を背景に、親子連れの影がまっすぐ伸びた。同神社では、参道のほぼ真正面に日が沈む18日に、香灯明祈願祭を行う。午後6時から境内に約3千本の竹灯をともし、神楽を奉納する。=2014/10/18 西日本新聞=

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宮地岳山頂、古宮跡、日の出参拝所

さらに、宮地岳の山頂に日の出参拝所がある。ここに太陽、天照大神信仰がうかがわれる。東方の日出づる国は古代より、ヘブライの民の末裔と云われる秦氏にとって「天国」を意味し、さらに東への移動を示唆している。

ちなみに、参道の本殿方向を延長すると、正にヤマト、伊勢方向になっており、現在の国名である日本の起源との関連が示唆される。また、参道の西方向は相島の石積古墳群を向いており、古墳群と境内地は同時期に位置調整されたものであろう。

筑紫の日向(ちくしのひむか)の地は、「是地者、向韓国、真来通笠沙之御前而、朝日之直刺国、夕日之日照国也。(ここは韓の国に面し、笠沙の岬に繋がり通り、朝日が真っすぐに刺す国、夕日が照り輝く国だ)(古事記:712年)」のとおり、夕日が照り輝く国であった。また東方に高い山はなく、神社のある福津市は朝日が真っすぐに刺す国であった。ある研究では、笠沙の岬は宗像市神湊の北端の草崎を比定している。


相島、天の岩戸のある島


天照大神の天の岩戸隠れ


西方を護る日御碕神社、島根半島の高天原


宮地嶽神社、高天原であった


秦氏の渡来ルート、高天原


豊葦原中津国


宇佐を通過せねばならない理由




高千穂のクシフル峰

高天原から高千穂のクシフル峰に降りるとは、ヘブライ語で『アララト山の麓のタガーマハランからシオンの丘の向こうの墓にたどり着く』、つまりエルサレムの神殿の嘆きの壁に行くということ。高天原での生活から出発して色々苦労して入植地(嘆きの壁、信仰対象の神社)にたどり着くことを示唆する。鹿児島県、宮崎県にある様な具体的な場所がある訳では無かった。多くの神社にある長い参道がこれを象徴しているかもしれない。


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従来の東征ルート








筑紫の宇佐(うさ、菟狭)嶋は現在の神湊の北端の草崎(くささき)の「くさ」と転化しても自然であり、また笠沙の岬の「かささ」とも自然につながり、筑紫の日向→速吸之門→菟狭嶋→岡の水門→宇佐(豊前国、航路として必ず通る)→→の東征航路となる(筑紫国の菟狭嶋)。


ただし、神武天皇の東征で、筑紫の日向から岡田の宮までは陸行した地元伝承もある。八所宮(福岡県宗像市吉留3186)に当時の云われが残っていた。八所の神は、神武天皇御東征の折、姿を顕し赤馬に乗り皇軍を先導されたと伝えられている。この事からこの地域一帯を「赤馬の庄」(現在の赤間)と言い、又吉き所に留り給うたが故に社殿の地を「吉留」と言う。












従来の天孫降臨の地日向三代の陵などは、鹿児島県と宮崎県に候補地が複数あって互いに否定しあっている。