新説: 功山寺決起から新地会所までの新ルート | 日本の歴史と日本人のルーツ

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従来、高杉晋作の功山寺決起について、80人の同志が立ち上がり、野久留米街道を関門海峡沿いを走って萩藩の新地会所を襲ったことになっている。しかし、海路を利用した説もあり、まだ確定していない。また、新地会所を襲った現場には200人にも及ぶ兵が居たことが記録に残っていた。

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1 長府功山寺、2 新地会所、3 住吉神社・奇兵隊宿営、4 椋野村関山・報国隊本営

陸路について当時、野久留米街道から関門海峡沿いの道の他、長府道と言う内陸の道が古代からあった。そして、実はこの長府道の沿道に奇兵隊と報国隊の宿営があった。

すなわち、功山寺の狭い境内には80人しかいなくても、途中から奇兵隊士や報国隊士が合流して、新地会所に到達した時は200名に膨れ上がっていたと考えると腑に落ちる。


参考

① 功山寺の決起(参考)

元治元年12月15日深夜(1865年1月12日深夜)、大雪の中、長府に集まった高杉晋作と力士隊(総督は伊藤俊輔)、遊撃隊(総督は石川小五郎)の80人(通説)は功山寺に赴いて五卿に面会、その後下関に入り、萩藩新地会所を襲撃、抵抗なく制圧後そのまま支持者である大坪の了円寺に駐屯。同志の軍艦3隻のみを萩に進め、俗論派を牽制。

この決起隊は野久留米街道、旧山陽道を走り萩藩新地会所を襲撃、高杉晋作は慶応元年1月2日まで此処にとどまる。ただし、海路を通った説もあり、ルートは確定していない。

新地会所の襲撃には200人加わった。「林家家内行事録」


② 小倉口の戦い時の奇兵隊の本営は住吉神社3にあった(参考)、遡って功山寺の決起の時期、長府の覚苑寺に駐屯したが、ここ住吉神社にも宿営があったとも考えられる。住吉神社は長府へも、赤間関へも、また北浦海岸へも容易に移動出来る絶好の場所であった。

功山寺に泊まられた三条実美卿が住吉神社にお参りされたとの説を歴史家に伺ったことがあるが、この当時、奇兵隊の本営があったことを示唆する。


③ 長府藩の報国隊の本営は椋野村の関山4にあった(参考)


④ 長府と赤間関を結ぶ内陸の道(参考)


⑤ 潮位のシミュレーションでは功山寺決起があった1865年1月12日(元治元年12月15日)の深夜(13日午前4時前後)は干潮であった(参考)。すなわち、長府の魚港は干上がって舟を出せなかった(参考)ので、海路の進軍は有り得ないであろう。

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1865年1月13日、冬の関門海峡の夜明けは午前7時22分頃である。もしも野久留米街道から関門海峡沿岸に沿って松明や提灯を持って走行すると、門司の幕府側の監視に異変を察知される怖れも考えられる。すなわち、内陸の長府道を選択する可能性が大きい。

田野浦の番所の鼻が小倉藩の監視所だった(参考)

壇之浦から以西の赤間関には船の為の常夜灯もあり、松明や提灯の灯りは目立たないとは思われる。