長州藩の志士達が長府藩の赤間関に滞在した時は稲荷町の遊郭、特に最高級の大坂屋の対帆楼で遊び、アーネストサトウもここで日本最初の洋食を食したと言われている。また、高杉晋作と西郷隆盛とが、ここで直談判したのではないか!とも考えられている。
鎮海楼(昭和10年頃の写真、明治28年、元対帆楼を伊藤博文が改名した)
⑤ 下関市メールマガジン(参考)
「大坂屋」は、幕末に高杉晋作や伊藤博文をはじめ、全国から多くの志士が集まった場所として知られています。この大坂屋は、「対帆楼」、「鎮海楼」とも呼ばれ、江戸時代から明治時代にかけて、全国にその名が知られていた下関稲荷町を代表する遊郭でした。三階建ての壮大な建物は、この町のシンボルであったとのことです。
⑥ 稲荷町 (下関市、近世~近代、jolgosより)
江戸期~昭和31年の町名、江戸期は豊浦郡赤間関に属し,長府藩領東部商店街の奥にあった花街地名は当町にあった稲荷神社に由来する(下関市史)。同社は,大同4年の創始で赤間関では最古の神社と見られる(寺社由来)。当町に天正年間に建立された善福寺は,のち奥小路町に移転して法福寺と改称された(下関二千年史)。
寛政4年の家数11・人数237うち男28・女209(遊女142・禿16を含む)であった(赤間関在番支配下の人口調/下関市史)。「筑紫紀行」に「稲荷町といふ遊女町ありて」とあり,早くから遊女町として知られていた「傾城色三味線」の中の諸国遊所見立角力並に値段付けに東前頭幕内3番目・太夫30目天じん24匁の記載が見え,当時の繁盛ぶりがうかがえる(下関二千年史)。当町の遊女は,壇ノ浦の合戦で滅亡した平家の官女たちが身を落として遊女になったのが起こりと伝えられ,その遺風として客より上座に座るというほかに見られない風俗があったという(西遊雑記/下関二千年史)。天保9年の人別控帳によれば,家数9・人数178(武士,神官,僧侶を除く)うち男27・女151とあり(赤間関人別帳),なかでも大阪屋が有名で,女郎23人,禿13人,三味線師匠(芸妓)7人と最も多く,300人も入れる桟敷を構え,遊女の芝居が行われていた(下関市史)。大阪屋山の料亭対帆楼は,伊藤博文が名づけたという鎮海楼としても知られていた当町は北前船の入港で栄え,幕末には多くの志士たちが出入りした(関の町誌)。
明治3年,富田重範が初めての写真館を開業(明治と下関)。同12年赤間関区,同22年赤間関市,同35年下関市に属す世帯数・人口は,大正14年24・205,昭和10年20・109(男15・女94)明治期に入ると北前船に代わって汽船が発達し,さらに明治34年西細江町の馬関駅周辺が活況を見せはじめて当町は衰退,遊郭は豊前田町・新地町が繁盛するようになった昭和20年の空襲で町の大半を焼失同29・31年赤間町となる。
⑦ 現在の大阪屋・鎮海楼