自分のことをある程度「美人」だと思ってきたので、今までミスコンやらモデルやらに挑戦してきました。

ただ、自分でもこの「美人」が「若さ」に大きく依存しているものだということはとてもよく理解していました。

だから私は歳を重ねるごとに当然失っていくであろう自分の美しさを覚悟し、歳をとっても失わないものを築き上げようと努力してきました。そのための1日1回のブログ投稿であり、本の出版であり、つまり文章の執筆でした。

文章の執筆を続けてきたことによって、自分のやるべきことを見出せるようになったのは確かです。28歳で「人生をかけて文章を書き私は社会を豊かにする」と思えたのはとても幸せなことだったと思います。

その点に関しては「続けてよかった」と思っています。

でも、ファンを自称する人たちからかけられる言葉は「美人ですね」で止まっていました。若さゆえの容姿を褒める以外の言葉は結局ありませんでした。一見私の書いた文章を褒めているようでも、結局は「若い女性にカッコいいところを見せたい」でしかありませんでした。

前の会社では、自分からは在職中にミスコンに出ていたことは隠していましたが、それでも社内では知られていました。ミスコンの内容についてSNS投稿をするので当然と言えば当然かもしれません。影で相当ネガティブに言われていたようです。

去年あった祖父の葬式では、私の立ち方や歩き方がきれいなことを指して両親から「(モデルだとかミスコンだとかを)自慢してるのか」と言われました。

高校時代からの友達からは「詩織ちゃんのファンなんて所詮は顔だけが好きな男の人たちだけでしょ。詩織ちゃんのやってることなんて所詮は容姿でチャラチャラと媚びてるだけのことでしょ」という言動を時々され、先月ついにいろいろ爆発して絶交状態になりました(彼女には日頃から他にも思うことがあったのも確かですが)。

実際に私のファンを自称する人たちは所詮若い女が好きな人たちでしかなかったので、彼女は間違ったことを言っていたわけではないかもしれないけれど、友達だと思っていた人が、私が全力をかけていたことをそんな風に評価するなんて許せませんでした。

ミスコンのために頑張っていた時、夫は何もしてくれませんでした。web投票をするでもなく、応援や労いの言葉をかけるでもなく。「どうしてあの時何もしてくれなかったの?」と聞くと「容姿で人を判断するなんて嫌だから。詩織のやってることに興味がなかったから」と答えられました。

ずっと戦ってきた私が隣にいながら、偏見を改められなかったということは私が伝えようとしてきたことが彼にすら伝わっていなかったということです。

私が今までやってきたことが、誰にも何も伝わっていませんでした。

確かに私は自分の容姿を利用しました。

でも私はそれがいつまでも自分の元にあるものではないとよく理解していたし、それこそいずれ手放すつもりでさえいました。

だからこそずっと文章を書き続けてきました。

けれどもほとんどの人がそういう私の伝えたいことなど無視して容姿だけで評価し、容姿だけで嫉妬しました。私が伝えたいことなど全く無視して、容姿だけで私を判断してきました。

私もこれから歳をとっていきます。

私の若さゆえの美しさだけを評価していた人たちは、あと数年で私のことを忘れていきます。

私の若さゆえの美しさだけで嫉妬してきた人は、その美しさを失った私を見て喜ぶのでしょう。

そう思うと私が今までずっと伝えようとしてきたことは、一体なんだったんだろうと思わざるをえません。