ギャップ・イヤー | re:making

ギャップ・イヤー

4月1日の茂木健一郎氏のブログのエントリーを読んだ。

このエントリーの内容は、茂木氏が、都内のカフェで仕事をしている時、西洋人のバックパッカーの青年と偶然言葉を交わす機会が訪れたという事だった。

そして、彼と話をしている時に、たまたま茂木氏の横をリクルートスーツ姿の女子大生が通ったという場面。

社会人1年目が始まったばかりの自分にとって、忘れてはならない大切な事が書かれていると思った。


以下抜粋

(茂木氏が、自分の仕事を中断して、バックパッカーの青年に話しかける)













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「学生さんですか?」

 「いや、そうではありません?」

 「旅行中?」

 「はい。去年、大学を卒業ました。」

 「どこの大学を出たのですか?」

 「ケンブリッジ大学です。」

 「ああ、ぼくもケンブリッジに留学していました! 何を専攻していたんですか?」

 「物理学です。」

 「じゃあ、ぼくと同じだ! 今は、何をしているんですか?」

 「さあ。世界中を旅して、ボランティアをやったり、言葉を勉強したり。」

 ぼくの中で、ひらめいたものがあった。

 「あなたはギャップ・イヤーをとっているんですね!」

  「そうです!」

 「ギャップ・イヤーが終わったら、どうするんですか?」

 「さあ。大学院に行こうと思っていたけれども、今は、働こうかなと思っています。イギリスに帰ったら、探しますよ。」

 「大学に入る前にギャップ・イヤーをとる人が多いと聞いていたけれども、大学を終えてからとる人もいるんだね。」

 「人によると思います。人生で何を求めているか、それと、経済的に可能かどうか?」

 「大学を出てすぐに仕事につかないと、なかなか仕事が見つからないということはないですか?」

 「いいえ。なぜそんなことがあり得るのですか?」

 「いや、履歴書に穴が開く、とか、そういうことは言われない。」

 「穴? どういう意味ですか? ギャップ・イヤーの間に、いろいろ経験を積むことが穴? だとしたら、その穴は、とても生産的な穴でしょう。」

 ちょうどその時、カフェの横を、リクルートスーツを着た女の子が三人で通っていった。

 「日本ではね・・・」

 「日本では?」

 彼が、真剣な顔をして聞いている。


日本では、大学の三年から就職活動をして、それで就職できないと企業がとってくれない。「新卒」で就職するために、わざわざ留年する人もいる。そもそも、女子学生で、就職活動をしている人はすぐにわかるんだよ。みな同じ格好をしているから。別に、法律で決まっているわけではない。なぜか、すべての企業が同じふるまいをしているんだ。

日本人は、みな一斉に事をやるのが好きなんでね。それで、学生がそれに合わせる。もっとも、そんな画一主義はイヤだ、とドロップアウトするやつもいるけど。個人的には、そういうやつにこそ、新しい日本を作ってもらいたいと思う。ところが、マスコミがまたクズで、あたかも、新卒でいっせいに企業に就職することが、当然だ、というような報じ方をするし。それが、偽りの社会的プレッシャーとなって・・・


 そんなことを説明しようと思ったけれども、自分の愛する国の恥を、この真剣な顔をした青年にさらすのは、はばかられた。



(中略)



 彼の名前はティム。これから、フィリピンやタイを回って、7月頃にイギリスに帰るという。

 仕事をするにしても、これからのグローバル社会、多様な経験がビジネスに役に立つだろう。ティムのような若者が、新しい世界をきずいていく。

 ティムに別れを告げて、私は東京の街を歩き出した。桜があちらこちらに咲いている。たおやかで、優美なものを愛する日本。ティムにも、すばらしいものをたくさん見ていって欲しいと思う。

 日本は素晴らしい国だと思う一方で、「自分がもし今学生で、就職を考えていたら」と考えると、深い絶望にとらわれる。

 
 日本人は、いつから、自分たちをこんなに不自由にしてしまったのだろう。
 法律で決まっているわけでもないし、誰もそうしろなんて言っていないのに。

 インターネットに象徴される情報革命で、「ゲームのルール」が変わった。組織に「所属」する個人ではなく、クリエイティヴな個人がダイナミックに合従連衡することで、イノベーションが起こる。

(以下略)

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茂木氏の、この記事に非常に共感を覚える。

自分自身、日本の就職活動という制度には疑問があったし、それは今でも変わらない。



「働く」という事、もっと言えば「お金を稼ぐ事」は、生きて行くために必要な事だ。

お金がなければ、生活が出来ない。

つまり、働かなければ、生きて行けない。

だ か ら、就職活動をしなきゃ。


働かないといけないから、就職活動をする

という思考回路は、完全に間違っている。



自分がどういう形で社会の一員として構成されて行きたいのか。

どうすれば、生活していくためのお金を稼げるか

どういう事をやる事が、自分という人間が最も生き生きとして行けるのか。




これを考える事が、働くという事だと考える。





お金を頂くという事は、誰かの期待に答えるという事だ。

しかし、期待に答えるという事と、欲望を満たすという事は違う。




ずっと、お茶汲みだけをやらされて、

こんな事、やりたくない!と叫んでも

誰かに、「君の仕事も、人の役に立っているんだよ」。と諭され

やりがいを無理矢理に見い出して働いている人がいるとする。


これは、期待に答えている事にならないと思う。

誰かに与えられたやりがいは、自分が見つけたやりがいと、全く別物だと思う。

誰かに理由を説明されるのではなく、自ら理由を説明出来るよう、とことん考える事が必要だと思う。








社会と関わる媒体は、会社や所属団体ではない。

個人だ。

全ての責任は個人にあるはず。

そして、全ての責任を個人が持った人に、僕は魅力を感じる。





そして、そんな魅力的な個人が、これからの日本、社会を作って行くと、そう本当に思う。







この記事に出てくるティムと、僕は、同じくらいの年代だと思う。


彼はケンブリッジ大学を卒業し、諸外国を回る事で何にも代え難い経験を蓄える。

方や自分は、丁度1年前に就職活動をして内定を貰った会社に勤め、せっせと働く毎日が待っている。



状況は違う。

しかし、同じマインドは、必ず持っていたい。

自分は、自由であるか。と。




自分がこれから行動する事

それら全ては、自分の責任で、よくも悪くもなる。

地位も、職種も、何も関係ない。そこにあるのは、人からの期待と、それに対する責任。


これから、自分は働いて行く。

働きながら、このブログに書いてある事。そして、それを読んで感じたこの気持ちは、

絶対に忘れたくない。







そのためにブログを書いておこうと思う、日曜の昼下がり。





長くなってしまった。