書きたくなったので① | レイチェル活動をやり続ける人の発信基地

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色んな理論、理屈、情報でまみれてまみれてまみれてきた。笑

まみれまみれだった。笑



いつからかはハッキリ分からないけど、

自分だけの?世界?(母胎)から
外の世界へ
「うぎゃー」と生まれてから?


少しの間は、
自分が外に生まれでても、
その他の世界も   【全部自分と同じ】と思っていたようだけど

(いや、知らんけど。笑)



いつからか、
自分と外側
自分とそれ以外の社会

って認識が始まる?
凄いね、赤ちゃんって。


その、第一が、大概の場合は家族。
お父さんとお母さん。

や、おじいちゃん、おばあちゃん、親戚、兄妹。

そして、教育(学校)。


自分の家族以外の家族を知ったり。

あー、複雑、複雑。

自分と違う人がいる。



あの子はこーで、私はこう。
これが出来て、あれが出来ない。
出来る人はカッコイイ、出来ないと恥ずかしい。

出来る人は人気者、
出来ないと、気後れする。

「自分でこれやる!」
と言ったんだろうけど、

その、
「これやる!」は、
本当にどれの中からでも選べてそれを選んだのかどうかも分からない。

全て自分で選んでるのにしても、だ。
 


---

学生時代の記憶は、やっぱりそんなにイイもんじゃない。

(ここ数年で変わってきたものの)

ハッチャケた?
淡い?
トキメイタ?

そんな学生時代は送ってない。

猛烈にバレーボールばっかりしてきた。
まぁ、それはそれ
なんやけど。


基本、常に病んでいた。笑

その頃は、ただ、
「思春期だから」とか
「誰でも何かしら悩みはある」
みたいに、当時の少女はそう思っていた程度やったけど、

今から思えば相当病んでたんやな、あの少女。笑


ま、色々な家庭やその過程があるから
壮絶な色々な目に遭ってきた人に比べたら大したことないんかもしれんけど、

そんな、壮絶な人と自分を比較して
「じゃあ私は大したことないか」
にはなんねーよ?

そんな事したくない。

小学校高学年の頃から明らかに変わった。

男子と話せなくなった。
これまで以上に、授業中に手を挙げて発表したり、当てられて発言するのが出来なくなった。苦痛だった。


少しずつ少しずつ
そんな自分を自分でせめていた。

自分と他人の間に溝が出来ていくのが分かりつつも、
なんでそうなるのか、
どうすればいいのか分からない少女。


親友?そんなの居たかなぁ?

多くはないけど
「コイツはダチだ」
って思える子は居たんやけど、

どこかで遠慮してる自分が居た。

ここまでは良いだろうけど、
ホントはここまで行きたいし、こうしたいけど、
さすがに、いくら親友だからって
それはどうかな。。

っていうのが、この頃からあった。


チームプレーのバレーボールを12年間やってきたけど、
その中ですらそれはずーっとあった。

とにかく、悩んで悩んで悩んだ。

人には分からないだろう。
分かりっこない。


--

バレーボールとの決別。

一度、「辞める」と決めた時があったけど、
その年1年間やり終えて、スッキリしなかった。

自分が逃げでフェードアウトしようとしてるのが分かりすぎたから、これでは辞められなかった。
 

ラスト1年、もう1回。
バレーボール人生12年間のラスト1年で、
ようやくバレーボールを知ったようなもんだ。笑


インナーマッスル。
それが自分に活かされる瞬間を知って、非常に動けた23?歳。

昔から(バレーを始めてから)よく思ってた。

「こんなの経験したら、社会に出たいなんて思えなくなる。
こんないいチームを味わって、外のクソな社会に出たいなんて普通思う?私は思えない」

って。


目標に向かい、チーム一丸となってやるチームスポーツ。

誰も、裏切らない。
トコトン、やれる。

他の子達や世間は
休みで浮かれてようが、他の事で楽しんでようが、

ある意味いい意味で興味なし。
ていうか、そこでブレてたらバレーなんて出来ない体質?の私。

とにかく私の中には
「外の社会なんてクソだ」
「大人はいい顔を作ってテキトーに生きてる」
が、あった。


だから、短大の時の進路も、

普通に就職か4大かの選択の中、
4大は金銭面で断念。

普通に就職なんて私が無理。

「バレーで会社に入りたい。それしか無理。」
っていうワガママを通して、

短大ではツテがなかったから、高校の時の監督の紹介で
埼玉のパイオニア(9人制バレーチーム)に行けることになった。

(すぐ辞めて、半年後に神戸の会社へ)

バレーで就職っていう希望が通った。
正直、短大のバレー部はレベルが低くて、チーム内でもよく暴れ、衝突した。



「私なんてー」
っていう動機から、
「リーグで2部のチームでもいいか」
を選んだのは私自身。

やっぱり、なぁなぁなチームは合わなかった。
(その、人に対して「なぁなぁだ」って喰ってかかってたのが問題だった。笑)

そんこんなで希望は通ってバレーで食べたけど、
徐々に迫り寄る危機感のようなもの。


「私、いつまでやるんだろ?いつまでやってたらいいんだろ?」


そんな質問、誰にしたって真剣には聞いてくれないというか、
相手にとったら真剣に聞いてくれてても
私にとったら
「あー、この人に言ってもダメだ。そうなるのか」
って感じだった。

辞める人は私より先に辞めてった。

「わー、このタイミングで辞めれていいな。辞めれるってすげーな」

ある人は、まだ辞めなかった。

「まだヤレるんや。すげーな」

で、私のタイミングが上に書いた通り。


1年は、失敗で終わり、次の1年で個人的にもチーム的にも最高だった。

辞めた後のことは考えてなかった。
バレーを辞めてから、この会社で普通のOLとして仕事しながら考えればいいと思ってた。


そしたら、病んだ。笑


退屈で退屈で
(そもそも   【仕事】や~!ゆうのに退屈だと文句だらけ。笑)

遅刻、早退をやり始めた。
そして、一年半
傷病手当をもらいながらの休職。

私、人にはその時々で恵まれてた
から、今、こうなんやけど、

恵まれてなかったなー
とも思う。

(それの説明は上手く出来ない)



それから8年程経ったのが、今。


休職期間前後に最初にやったのが、
徘徊、拒食、過食。
昼夜逆転、ひきこもり、自傷行為(手首、足首)。

当時住んでた京都の分譲マンションの中を破壊的に
壁やガラスを足や拳でブチ抜いたりもした。


吸いたいわけでもないけどタバコ吸って抗ってみたり
睡眠薬を大量に飲んでみたり
パンを喉に詰めてみたりもした←アホやな。でも、この時は死のうと真剣。

親との衝突なんて当たり前。
警察との取っ組み合いも数回。


人が、外が怖くて電車にも乗れなかったし
少し外に買い物に行くのにも、母親に手を繋いでもらわないと行けなかったよ。
(25とか26歳とかのあたり)

足をギブスした状態で、バイトの面接に行ったなぁー。
いや、よく採用してくれたよあの店長。
これは感謝。

家の近所のうどん屋さんでのバイト。
一年半。
これが1番続いたバイト。




相当長くなったけど
つづく。