薔薇が欲しくて立ち止まる。買ってしまえばいいんだ、なにも考えず。フラワーベースがないとか切り花を長持ちさせた試しがないだとか、色々考えてしまうからいけない。
ショーケース内の薔薇は堂々と鎮座している。花はいい。互いに干渉することはなく、花は花であるだけで、美しい。薔薇の隣の白百合も、手前のかすみ草も、ただそれだけで。
そこに水を差すことが、果たしてわたしに許されるのだろうか。生け花だけに、なんてね、ばか。
明くる日また足を止めてしまうことなんて、言わずもがな。けれど買わない理由を、最もらしい理由を探し出して、わたしは今日も薔薇を買わない。

 じぶんの心臓の音だとか、ささくれできてしまったことだとか。
 明日の天気、タオルのほつれ、ぴかぴかの十円玉。
 ふだんは気に留めていないこと、ときにはひどく気にしてしまったりする。
 
 取るに足らないこと。
 けれど、そう思った途端、さみしくなってしまうから。

 早まる夜明けの迎え方、思い出すにはもうすこし、かかりそう。


 家の洗濯機のなかに、梅の花が咲いていた。
 ふたを開けて見える、フィルターのようなもの。わたしは洗濯機の名称なんておよそ詳しくないものだからどれと言えないのだけれど、とにかくそんなようなものが大きく咲いた梅の花に見えて、タオルを抱え込んだまま、しばらくしゃがみ込んでいた。
 こういうものを形容したいとき、語彙がすくないものだから、頭を抱える。
 うちわみたいな形の、いかにも機械めいた灰色をした花びらが、五片ではなくて六片。この時点でもう梅ではない。でも何度覗いてみてもやっぱり、梅の花が咲いているようで。中央には花びらより明るい灰色のめしべがまあるくあって、そこから伸びる細い線が放射線状に広がっているので「やく」がついているようにも見えるのだった。
 ドラム式の洗濯機にはもうずっと使っている洗剤と柔軟剤のにおいが染み付いていて、もちろん梅の香りなんてしない。居間ではストーブが燃えているし庭の雪は未だ溶けきらず。裸足が冷えてココアが恋しくても、春だった。

つり目がちな車がほとんどで、笑ってるやつはすくない。並んでるタクシー見るたびロケットペンシル思い出す。車はとにかくトランクが十分なくちゃいやだ。車といえば、テールランプ、という言葉を最近覚えたので、使いたい。覚えたばかりの言葉はできたてのごはんみたい、はやく使わなくちゃ。できれば、教えてくれたひとの前で、得意げに、使いたい。
言葉と料理、だいたいの要素はおんなじだから、ひとつの空間にいっぱいあったら、贅沢だ。だからごはん食べながらお話する時間はいつだってぜいたくだけど、ぜいたくに慣れてしまってるかんじがある。けれどそれはとっても幸福なことなんじゃないかって気がついて、予定外のデザートまで食べてしまうんだ。
そういえば、車のなかでアイス食べるのがすきだった。お買い物の帰りに。めったにしないけれど、だから特別で、コーンまで食べきっても、車から降りても、しばらく幸福感でいっぱいで。

冬はなんだか、ぼんやりしてる時間が増える。窓の外では雪が降っているというのに、夏のことを思い出したりなんかして、そのたびすこしお腹がすく。シェイクなんてどれくらい飲んでないんだろう。汗をかいたプラスチック容器の感触が思い出せないまま、ねむる。

「あいうえお」ってははおやてきなやさしさがあるよね。
「かきくけこ」ってかたそうそうだよね。
「がぎぐげご」ってぎざぎざしてそうだよね。
「さしすせそ」ってかわいてそうだよね。
「ざじずぜぞ」ってしめってそうだよね。
「たちつてと」っていっぱいつまってだよね。
「だぢづでど」っておおきさがまちまちっぽいよね。
「なにぬねの」ってぬめってそうだよね。
「はひふへほ」っどこかぬけてそうだよね。
「ばびぶべぼ」っておぼれてるみたいだよね。
「ぱぴぷぺぽ」ってきかいみたいだよね。
「まみむめも」ってこもってそうだよね。
「やゆよ」  ってあみものしてそうだよね。
「らりるれろ」ってよってそうだよね。
「わをん」  ってかわりものだけどゆうずうききそうだよね。

もじってばらばらでもくみあわせてもおもしろいよね、おおっと。
文字ってバラバラでも組み合わせても面白いよね。
やっと読みやすくなった。
漢字もカタカナもあるんだね。そっか。じゃあね。



お風呂洗うブラシが、シャワーヘッドひっかける部分にぶら下がっている。首根っこ掴まれて上向きになったそれは白い菊みたいに広がっていて、下から見上げながら体を流した。
おばあちゃん家の浴槽はステンレスで、背中をつけるとあつい。乳白色のお湯。輪郭線だけあったかくて、芯まで冷えたからだはなかなか手強い。冷え性に効くらしいつぼを押す。白菊からは、水が滴り落ちて。
記憶がふやけて溶けだす。水面に並べては、水を含んで沈むばかり。あの日のきみ、語尾が思い出せない。天井ちかくの窓に叩き付けられた雪はひしゃげて、立ち上る湯気もそこに行き着くまでにすっかり冷えてしまっているから。鼻歌のかんじが、だれかさんみたい。冬の感情はぜんぶ、冬、って名前でいいんじゃないかな。雪を踏みしめる音と、りんご噛む音は似ている。ジャスミンの精油がほしいの。去年置いていった手袋探さなきゃ。ふやけた指先。伸びた前髪、わずらわしい。
ラグマットに裸足の足を滑らせる。白い菊の花言葉は、真実、誠実。雪が降り積もる夜、空は赤みを帯びて明るい。月が見えなくても夜は更ける。コートのごみを取って、指のふやけが戻るのを待ちましょ。ろうそくの揺らぎを見つめてロマンチックに酔いしれたいところだけど、ストーブで我慢しておきましょ。せっけんのにおいで、あなたを思い出しましょ。
微小設定の火が揺らいで、思い出したようにラグマットを撫でる。テレビはお正月特番で忙しい。垂り雪の振動。除雪車がけたたましくて、冬だった。


「その子猫を追い出すな!」
グワッと目を見開きながら狡猾な顔で男がそう喚くのを清はフシギダネのぬいぐるみを抱きかかえながらみつめていた。清は男を恨めしく思った。同時に自分が情けなくなった。

子やぎがめえと鳴けばラム肉を食うのをやめるような男だった。
豚汁を「ぶたじる」と読み上げては赤面して即刻帰宅するような男だった。
それも家の入り口と言う入り口に色紙を張りつめて
おひさまにすらみられないように家中をわがままきままに施すような
そんな
ゆるいオレンジ色の似合う男だった。

そんな男は今朝子猫を追い出した清を袋だたきにして小屋に投げた。
清の知っていたその男は、もう、どこにもいない。
清は一人ぶたれてあちこち酷く痛む傷口から染み出る血液を愛撫して
ひとりぼっちで泣きながら眠った。
彼は独ぼっちでねむった。

 かけがえのないもの、壊れてしまったら泣き虫に成り下がるのかな。笑ってばかりいて悲しい気持ちを忘れてしまっている。そんなおぼろげな人を見つけては、人型に切り抜いた蝋人形を思い浮かべていた。燃えてしまったら消えてしまうのだろうか。ゆらゆらと炎をおびてつやつやと蝋を垂らして。首を垂らして歩き続ける。

 不可解な問題に直面しては諦めたように笑顔作って、本心では気に病んで仕方ないのに、悟られまいと、健気。ねぇ。

 あなた、さっきから笑ってばかり。下手なのは嘘だけにしたらいいのに。

 似ているの。空と海が。そういって他人を分からず屋に仕立て上げて、手の甲を爪でひっかく様は、なんだか見てはいけないものをみてしまったようだ。こっちまで当事者になったみたい。共犯者の一歩手前。

 後ろ指が誰かに当たってる。方位磁石が狂ってる。

 かけがえのない、者。どうやったら突き放さないで済むのだろう。
 あと一分好きでいて。あと三秒泣かせて。あと一秒悩ませて。あともう少し夢を見ていたい。

 涙声で明日を羨むわたしを許して欲しい
 どんな言葉がほしかった?じゃないんだよ
 変わっていく、変わらずにはいられない、そんな状況が怖かったの
 どうしようもなく人はたったひとりでは無力だから

 歩き慣れてない道を鉛のようなわだかまりを抱えて進む
 その先にあなたがいればそれでよかった
 つま先立ちでも届かない野望に焦がれていたわけではなくて
 しゃがみ込んで地面をノックしても帰ってこない返事を待っていたわけでもない
 今を見ようとして 迷ったの

 振り子みたいに傾き続ける自分に悪酔いした
 どっちつかずの正論に投げかけた答え
 どれも間違いだったし当たってもいた
 不思議でしょう それでもまだ 諦められないのだから

 かぼちゃの馬車が目の前を通過した
 後ろ姿を追いかけるための道が見当たらない
 変わりゆく人 触れていたいのに


 体の輪郭がぼんやり溶けて、いま、まどろみのなかにいることを知る。毛布をたぐり寄せたい腕は波にさらわれて。眠りにつくコンマ×秒前、あなたの声を聞いた。
 (私も、)声帯が海に沈む。海水はすぐに脳まで満たして、浮遊感。かなづちだけれどこわくない。ひとかきであなたのもとへ。
 漂っていたい。ナイフが錆びて朽ちるまで。いつか、泡となり、消えゆくとも。