ボビー・イーライ77歳で死去 | 吉岡正晴のソウル・サーチン

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ボビー・イーライ77歳で死去

 

【Bobby Eli Dies At 77】

 

訃報。

 

ボビー・イーライは、1946年3月2日、フィラデルフィアに生まれた。イーライは実はファースト・ネームで、ファミリー・ネームはタタースキー(Tatarsky)という。両親はソ連からやってきた。出身地は、現在はウクライナになっているところだそうだ。ボビーの祖父がまずアメリカにやってきて、グロッセリー・ストア(食料品店)を始めた。そして祖父は、祖母、ボビーの母、その弟(あるいは兄)を呼び寄せた。1923年7月4日のことだという。そのとき母はまだとても若かった。

 

父はプロのミュージシャンではなかったが、弦の楽器を趣味で弾き、マンドリンは上手だったという。ボビーが4歳のときに父はマンドリンを教えた。ボビーによれば、父は歌手としてもなかなかいい声をしていたそうだ。

 

9歳の頃(1955年)、マンドリンをだいぶ弾けるようになったボビーは、ダウンタウンに行き、いわゆる簡易録音機に2ドル払い、自分の演奏を録音、レコード盤を作った。曲目は「カンバック・トゥ・ソレント」という。その後も、アコーディオンを習ったり、いくつかの楽器で遊ぶようになる。13歳の頃(1959年)には初めてのエレキ・ギターを入手。まわりの友達が、ボビーがエレキ・ギターを手に入れたと聞くと、みんなボビーの家に集まりだすようになった。

 

彼が住んでいたエリアは当初はユダヤ人が多かったが、徐々にブラックの人たちが増えてきていた。家でギターの練習をしていると、街行く人がそのギター・プレイを耳にするようになった。

 

そしてあるとき、ジョン・アイヴィーという人物がボビーの家にやってきて、アイヴィートーンズというグループをやっているが、ギタリストがいないので参加しないかと誘ってきた。これを機に、彼は徐々にギタリストとして地元界隈でちょっと知られる存在になった。そうこうしているうちに、地元のザ・ブルーノーツ、コード・ステッパーズなどから声がかかるようになった。

 

この頃、界隈にはドリームラヴァーズ、ザ・タイムズといったヴォーカル・グループがいてドゥーワップを歌っていた。

 

そして、ボビーはこの頃ヒットし始めていたフィル・スペクターの作るレコードに魅せられるようになった。徐々にレコードをプロデュースすることに興味を持っていった。

 

こうして地元のクラブなどでギタリストとして知られるようになると、地元のスタジオでのレコーディング・セッションなどにも声がかかるようになった。

 

1970年代に入ると、地元フィラデルフィアは同地のプロデューサー、ケニー・ギャンブル&リオン・ハフ、そして、トム・ベルらが作り出すいわゆる「フィラデルフィア・サウンド」が現象的人気を出すようになり、ボビーもそうしたレコーディング・セッションに参加、フィラデルフィア・サウンドの重要なギタリストになっていった。

 

クレジットが残る比較的古い作品群としては、次のようなものがある。

 

Len Barry  My Kind Of Soul (1967)

 

The Ambassadors – Soul Summit (1969)

 

Wilson Pickett (Album)  In Philadelphia (1970)

 

Intruders (Album) When We Get Married (1970)

 

O’Jays – Backstabbers (1972)

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=UCY6flzgfA4

 

Billy Paul 360 Degrees Of Billy Paul (1972)

 

Blue Magic  Sideshow (1973)

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=-NJXVXbO6oI

 

RONNIE DYSON - JUST DON'T WANT TO BE LONELY 1973

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=-mNaDmJ8hG0

 

Major Harris Love Won’t Let Me Wait (1975)

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=-xItIxyykXk

 

初期のスタイリスティックス、フィラデルフィア・インターでの作品群などでクレジットがあるが、その名を決定づけたのはブルー・マジックの「サイドショー」、メジャー・ハリスの「ラヴ・ウォント・レット・ミー・ウェイト」などをプロデュースしたり、アレンジしたりしたあたりか。

 

当初から新しいサウンドにチャレンジするタイプで、ワウワウ・ペダル、ファズ、あるいは、シタールの音などにもチャレンジしていた。

 

そして、TK傘下からイーライズ・セカンド・カミング名義で自身のアルバムも出した。

 

Eli’s Second Coming Love Chant (1977)

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=dNtZahHP7Ds

 

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=baqfZ4sj3VA

 

2007年には、デルフォニックスのウィリアム・ハート、ブルー・マジックのテッド・ミルズ、スタイリスティックスのラッセル・トンプキンス・ジュニアをまとめた3人組「レジェンダリー・テナー・オブ・ソウル」のプロジェクトをてがけた。

 

また最近では、エル・デバージ、スティーヴィー、あるいは、ジョージ・クリントンらとセッションを繰り広げたという。

 

(この項、つづく)

 

 

 

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