今回のエントリーは2014年3月に書いた「池上彰に関する複雑な感情」を加筆修正したものである。相変わらず池上彰人気がとどまるところを知らないのだけれども、私の彼に対する「複雑な感情」もとどまるところを知らないので、もう一度考えてみることにした。

あらかじめ書いておくと、私は池上彰が嫌いなわけではないし、彼の活動を否定するつもりもない。ジャーナリストとしての彼を非常に尊敬している。彼の緻密な取材に基づいたテレビ、新聞、著書での活動は極めて高いレベルのものであると思っている。私が「嫌い」なのは、自ら調べたり考えることを放棄してしまい、池上彰に頼り切ってしまっているメディアと多くの視聴者である。

本来メディアとは世界中の出来事を取材し、ニュース価値に応じて視聴者に向けて発信するものであり、視聴者はメディアによって発信された情報に対して価値判断を加えるという存在であったはずだ。しかしながら、いつの間にかメディアは恣意的にニュース価値を判断し、一方的な解説を加えて発信する一方、視聴者はメディアによって発信された情報を盲目的に信じる存在となってしまった。

そうした中で池上彰は事実を精確に伝え、その事実の背景について詳細に解説し、視聴者に「考えさせる」というスタイルを確立した。言うまでもなく、「事実を精確に伝える」というのは本来メディアが担うべき役割であり、「背景をふまえた上で考える」というのが視聴者が担うべき役割であった。池上彰はメディアと視聴者それぞれが欠いてしまった役割を一人で担っているというのが私の認識である。

池上彰が注目されるきっかけとなったのはNHKの週刊こどもニュースであった。この番組はニュースに興味を持ちつつも、「背景をふまえた上で考える」訓練が必要な子ども向けに作られた番組であった。ところが、「背景をふまえた上で考える」ことができなくなってしまっていた大人が見て支持を集めたことで、民放において大人向けに同様の番組が作られるようになった。池上彰が大人の間で大ヒットしたことは、裏を返せばそれだけメディアと視聴者の「知的劣化」とも言うべき事態が進行していたことを物語っている。

池上彰がもてはやされたことに最も戸惑いを覚えたのは実は池上彰本人ではないかというのが私の考えである。それまで「子ども向けで十分」と思っていた番組が、大人からも広く支持されたのである。「え、視聴者ってこんなに劣化していたの!?」というのが池上彰の本音だったのではないだろうか?そこで「これはまずい!」と思ったことで、それまで以上にメディアに露出する道を選んだのではないかと邪推する。

以前、Twitterの方でつぶやいたことがあるが、池上彰に対する視聴者の反応は大きく4つに分類されると考えている。

第一のタイプは、池上彰の話を「へぇ~」とか「そうだったんだ!」と思うタイプ。日々のニュース番組や新聞記事にそもそも興味が無い、あるいはニュースを見たり新聞を読んだりはするが、そこで語られたり、書かれている内容を理解していないタイプである。

第二のタイプは、池上彰の話を聞いて、「もうちょっと調べてみよう」というタイプ。第一のタイプと同様、ニュースに対する理解度は低いのだが、池上彰の話だけでは物足りず、関連記事や書籍を読むことを通じて、さらに理解を深めようとするタイプである。

第三のタイプは、池上彰の話を聞いて、「そうそう」と思うタイプ。日常的にニュースへの関心が高く、理解度も高いタイプで、池上彰のコンテンツをニュースのダイジェスト版的に利用しているタイプである。

第四のタイプは、池上彰の話を聞いて、「そんなの知ってるよ」と思うタイプ。そもそも日常的にニュースや新聞を読むことを通じて、自分の頭の中でニュースや新聞記事のダイジェスト版を作れてしまい、わからないことがあれば関連記事や書籍を読むことでより理解を深めようとするタイプである。

池上彰が望ましいと思っているのはおそらく第二と第四のタイプであると思うが、現在の視聴者は圧倒的に第一のタイプが多いのではないかと考える。池上彰の露出が増え、池上コンテンツがヒットすることで視聴者のニュースへの関心は確かに高まったと思う。

しかし池上彰の並々ならぬ努力とは裏腹に、視聴者が「背景をふまえた上で考える」ようになったかは怪しい。多くの視聴者は池上コンテンツを消費することで満足してしまい、池上コンテンツよりも掘り下げたいコンテンツに手をつける段階にまでは至っていない。結局のところ、「わからないことを調べる」とか「難しいことを考える」ことをしないのである。

先日日本に帰国した折に、News Picks主催の塩野誠さんとMr. Suspenderの対談に参加したのであるが、この中で塩野さんが「検索できることも検索しないこと」について嘆いていた。「検索をすること」というのは「わからないことを調べる」というのとイコールであるが、それすらもすぐに実行しないというのが残念ながら現在の多くの人の傾向なのである。

かつては「検索する」、「調べる」という行為自体が非常に手間のかかるものであった。百科事典を調べるというのは多くの人が経験したことがあるだろうが、さらに図書館のレファレンス・サービスを利用して書籍を探すという経験をしたことがある人は少数派であろう。現在は、スマートフォンさえあれば、誰もが瞬時にわからないことを調べることが可能である。それでも調べない人の方が圧倒的に多数派であるというのは非常に残念なことである。そして、多くの人は「わからないことを調べない」ゆえに、「何かを考える」ということも放棄してしまうのだろう。

情報の氾濫する社会においてはそれをうまく編集する人間やツールが必ず登場する。しかしながら、そういった人やツールに編集を任せっきりになるのではなく、自分自身で編集する力をきちんと身につけたい。全員が池上彰になることは不可能だが、「池上彰的な能力」の一部を身につけることは可能である。