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札幌市東区には現在、1つの警察署と10の交番がある。

それらの配置と道路の関係から札幌市東区の発展を少しばかり考察したい。

(図中、◯にXが警察署、Xが交番や派出所、駐在所)




<図1 北海道札幌方面東警察署周辺>

まず最初は北海道札幌方面東警察署(北16条東1丁目3ー15)から。

東警察署は1949年(昭和24年)に札幌市警察局の札幌市北警察署として発足する。

当時の日本はGHQの占領下にあり、戦前のシステムを排除する目的で小規模な自治体を除きアメリカ式の自治体警察が設置された。

しかし予算不足などで自治体警察の運営が難しいなか、1951年(昭和26年)に小規模自治体を管轄する国家地方警察の体制が強化され、自治体警察を返上した自治体も国家地方警察が管轄するようになり、1954年(昭和29年)には自治体警察と国家地方警察が統合され都道府県警察に再編される。

札幌市北警察署もその際、北海道札幌方面札幌北警察署に移行した。

札幌市は1972年(昭和47年)に政令指定都市となり7つの政令区が設置されたが、その時点で中央警察署、北警察署(のちの東警察署)、東警察署(のちの白石警察署)、西警察署、南警察署と5つの警察署が設置されている。

1976年(昭和51年)に主に北区を管轄する北警察署が札幌北警察署から分割し設置され、それにともない札幌北警察署は東警察署に名称変更し、札幌東警察署は白石警察署に変更された。

札幌七不思議と勝手に呼んでいる「なぜ東警察署は東区の南西に偏った位置なのか」の答えはここに隠されている。

また、1978年(昭和53年)には豊平警察署が発足し、7つの政令区全てに警察署が設置された。


それでは図1を見てみよう。

1949年に設置された札幌市北警察署は、当然ではあるが1950年頃の地図に反映されている。

目立つのは西側を走る道路で、かつての石狩街道、現在は通称として旧石狩街道と呼ばれる市道「幌北線」。

当時の札幌市北部では最も重要な道路であり、新川沿と呼ばれる市街が作られた石狩街道沿いに警察署が置かれたのは必然だろう。

『札幌市の区域変遷』 に詳しく書いたが、1950年(昭和25年)に北26条から北28条部分が編入されるまで、札幌市の創成川東岸の北端は北25条までだった。

北警察署の管轄範囲は鉄路のあった北6条以北であり、北16条はちょうどその中間にあたる。


なお、北12条から北25条地域は1934年(昭和9年)に札幌村から札幌市に編入された。

1975年頃の地図にはまだ反映されていないが、北14~15条には都市計画道路「環状通」が作られている。

ただ、道道「札幌環状線」は東8丁目の交点で北上しており、「環状通」のこの部分が市道「北15条線」になっている点は面白い。



各交番について述べる前に、現在の東区にあたる地域において北警察署が作られる以前の警察施設の設置状況を簡単に説明したい。

1945年(昭和20年)時点でこの地域には北十条派出所、苗穂派出所、丘珠駐在所、札幌村駐在所が置かれていた。

この内、札幌村駐在所は北13条東16丁目の札幌村役場付近にあったという。

その他については現在の交番との関係は分からない。




<図2 北十三条交番付近>

最初に取りあげるのは北十三条交番(北13条東1丁目3-7)だが、ここは10年ほど前に建て替えられた新しい交番で、それ以前は北十条交番が付近を管轄していた。

北十条交番が戦前の北十条派出所と関連しているのか地図からは判断できない。

北十条交番は70年安保真っ盛りの1969年(昭和42年)に襲撃を受けたというエピソードがあるものの、これは同じ北10条にあった北大前の交番だろう。

もしかしたら戦前の北十条派出所も北大前の派出所だったのかもしれない。


その北十条交番は通称石狩街道、都市計画道路「創成川通」、国道5号に沿う位置にあった。

北10条は1934年以前からの札幌市域であり、北十条交番は東区地域にある交番としては唯一、当初からの札幌市域に設置された交番といえる。

一方、建て替えられた北13条は前述の通り1934年に編入された地域。

同じブロックの南側道路には地下鉄東豊線が通っており、付近市街の発展に応じて東豊線寄りに移転したのかもしれない。

ただ、この付近は古くから住宅などが建ち並んでいたので、単に空いている土地が北13条にしかなかった可能性もある。




<図3 北十二条東交番付近>

次は北十二条東交番(北12条東11丁目1-12)、ここも2000(平成12年)年に移転建て替えされた交番で、以前は北九条交番がこの地域を管轄していた。

北九条交番は1970年頃までに建てられており、設置場所は道道「花畔札幌線」、通称ナナメ通り沿いにあたる。

ここもかつては石狩街道と呼ばれていた時期があり、別称として札幌村線、元村街道、丘珠街道などとも呼ばれていた。

早山清太郎が開削したこの道は札幌市街から札幌村、丘珠村を経て篠路村に繋がる唯一の道として明治初期には重要視され、その後も周辺村落にとって重要な存在であり続け、図3の1950年代でも道路沿いに家屋が建ち並び重要な存在であることは確認できる。


一方、北十二条東交番は市道「北13条線」に接しており、駅からはやや離れているが東豊線沿いに移転し設置された。

なお、東豊線沿いにある交番は北十三条交番と北十二条東交番の二つである。

一見すると意外に思えるが、東豊線の開通は1988年(昭和63年)の年末であり、その頃には東区の交番設置が終わっていたので意外ではない。

北九条交番は1910年(明治43年)に札幌村から札幌区に編入された地域、北十二条東交番は1934年に編入された地域にあたる。




<図4 苗穂交番付近>

苗穂交番は1970年頃までに建てられた交番で、近年同じ場所に建て替えられた。

ここは都市計画道路「苗穂通」沿いにあり、交番の位置を含めこの通りを境に西側が1910年の編入で札幌区に組み込まれている。

1910年時点で境界となる道路が作られていたように、この辺りは早くから工場などが作られており発展していた。




<図5 北二十六条交番付近>

北二十六条交番(北26条東6丁目1-1)も1970年頃までに設置されている。

図5の下二つの地図を見ると分かるが、この辺りは農園街道と呼ばれた現在の市道「北26条線」しか存在せず、昔から近辺では重要な道路だった。

農園街道の名称は北23条以北にあった広大な北大第三農場に由来すると言われている。

1934年の境界変更では北25条までが札幌村から札幌市への編入地域となっており農園街道がちょうど境界になったが、1950年の境界変更で北26条から北28条までが札幌市に編入された。

1950年~1970年頃までに都市計画道路「宮の森・北24条通」の道道「札幌環状線」部分が整備され、「北26条線」の東西を繋ぐ道路としての地位は低下していく。




<図6 元町交番付近>

元町交番(北24条東18丁目4ー39)も1970年頃までに設置された。

ここは都市計画道路「宮の森・北24条通」の市道「北24条線」沿いに作られた交番だが、図6を見ての通り1950年までは何も存在してない。

現在の東16丁目以東が札幌市に編入されたのは札幌村が札幌市と合併した1955年(昭和30年)であり、このエリアは合併してから急速に住宅地になっていった。

元町交番は東豊線近くに移転した二つの交番を除けば唯一、戦後に作られた道路沿いに設置された交番である。




<図7 東苗穂交番付近>

東苗穂交番(東苗穂1条3丁目3ー54)も1970年頃までに設置された。

この交番は都市計画道路「三角点通」、市道「苗穂三角街道線」という古くからある道路沿いに作られており、また目を引くのは付近に札幌刑務所があること。

設置された頃にはまだ道道「札幌環状線」は作られておらず、「苗穂三角街道線」付近の住宅地を管轄する意味合いが強かったと思われる。




<図8 札苗交番付近>

札苗交番(東苗穂8条3丁目3-17)は1985年頃までに設置されたようである。

現在は都市計画道路「三角点通」の市道「苗穂三角街道線」、都市計画道路「丘珠空港通」の道道「丘珠空港東線」が交わる地点に建っているが、当時はまだ「丘珠空港東線」が整備されていない。

しかし、古くから「苗穂三角街道線」と雁来村(現在の東雁来)方面に向かう道路が存在しその交点となっていた。

付近では1970年代から「苗穂三角街道線」沿いに急速に住宅地が増え、1979年(昭和54年)に札幌東陵高校、1983年(昭和58年)に札幌東豊高校が開校。

札苗交番はその発展に合わせて設置されたものと思われる。




<図9 丘珠交番付近>

丘珠交番(北35条東26丁目3-17)は1964年(昭和39年)に設置され、1975年(昭和50年)に改築、2017年(平成29年)に建て替えと時期が明確に分かっている。

ここはかつて元村街道や丘珠街道などと呼ばれた都市計画道路「苗穂・丘珠通」、道道「花畔札幌線」に面しており、市道「烈々布街道線」に名を残し都市計画道路「丘珠空港通」の一部となった烈々布街道にも近い。

「丘珠空港通」の整備、伏古川の直線化など開発が進む一方、道路を挟んで玉ねぎ畑が広がるなど牧歌的雰囲気も残る。




<図10 栄東交番付近>

栄東交番(北41条東14丁目2-16)は1980年頃に設置された。

都市計画道路「丘珠空港通」道道「丘珠空港線」に面しており、1989年に東豊線の終点栄町駅が付近に作られる。

「丘珠空港線」(烈々布街道)、烈々布神社、栄小学校(烈々布小学校)が近くにあるなど烈々布地区の中心といえ住宅地の拡大も進んでいたが、一方で農地や牧場が広がっていたためか交番の設置はやや遅れた。

栄東交番は2022年(令和4年)9月末現在、建て替えが行われており更地になっている。

そのため周辺の土地が「丘珠空港線」より1mほど低いのが分かりやすい。




<図11 栄西交番付近>

栄西交番(北42条東4丁目1-35)は1980年頃に設置されたと思われる。

過去に烈々布街道と呼ばれた都市計画道路「丘珠空港通」、道道「丘珠空港線」に面しているが、北23条から北51条(旧琴似川沿い)まで北大第三農場だったためかつては道路以外に何もなかった。

東8丁目から東16丁目に小売店舗や飲食店の重心が移転したため付近の地位は低下しているが、住宅地はびっしりと広がっている。

なお、この近辺も「丘珠空港線」から1m以上低い位置にあり、栄西交番は盛り土をして道路と同じ高さを維持している。



【まとめ】

札幌市東区の交番は元町交番と北十二条東交番を除いて古くからある重要な道路沿いやその付近に設置されている。

かつての石狩街道付近に東警察署と北十三条交番、「苗穂通」沿いに苗穂交番、「三角点通」沿いに東苗穂交番と札苗交番、かつての烈々布街道を含む「丘珠空港通」付近に札苗交番、丘珠交番、栄東交番、栄西交番、かつての農園街道沿いに北二十六条交番。

また、ナナメ通りと呼ばれる「花畔札幌線」にも北九条交番があった。


個人的に面白いのはかつて中通と呼ばれた都市計画道路「東8丁目・篠路通」沿いに一つも交番が無い点。

道路沿いには区役所が置かれ、「丘珠空港通」との交点は大型スーパーが作られるなど商業の中心と言っても過言ではなかった。

これは想像だが、一つの交番の管轄区域を半径1km程度と想定すると、西側に置かれた交番との距離から東16丁目以東に設置した方が地域バランスがよかったのかなと思う。



<図は全て『今昔マップ』より>