ハムラビ法典のように「歯には歯を、目には目を」というのも原始的ではあるが、紛争解決の手段として優れた方法の一つであるかもしれないが、近代国家では法のもとに犯罪が裁かれ、紛争が処理される建前となっている。


 しかし法を具現化する司法制度やその運用には看過しがたい欠点があり、それはひとりわが国に限らない。


 たとえば米国では陪審制のために人種間犯罪において時に犯罪者が無罪とされ、あるいは無辜の者が有罪とされる。それを民主制度の費用といって済ますことはできまい。


 翻ってわが国を見ると、刑事裁判の形骸化が指摘されて久しい。裁判以前に警察検察が有罪無罪を決めていると言っても過言ではない。これを日本の警察の優秀さのあらわれとみるか、制度の欠陥とみるかは意見が分かれるであろうが、行政庁による逮捕や起訴が容疑者の社会的生命を抹殺するという点で推定無罪の原則など絵に書いた餅といえる。


 さらに問題なのは、人質司法である。刑事裁判官は長年の検察との交流の結果、検察に信頼を置きすぎ、否認被告はすべて有罪だと思い込んでいる。そのため、否認する者は保釈しないという、刑事訴訟法の明白に誤った運用をしてはばからない。


 したがって、わが国に必要なのは裁判員制度ではなく、起訴陪審や保釈陪審の制度であろう。そう言う意味では検察審議会は有益なはずだが、運用が不透明なためその意義を自ら毀損している。


 次に民事裁判であるが、弁護士法の規定にもかわらず弁護士の最大の任務は依頼者の利益を守ることだという刷り込みにより、時として正義は實現されず、正しい判決が出た場合でも実際的救済にならない場合が多過ぎる。民事訴訟法の根幹である当事者主義と自由心証主義が隘路になっていると筆者は考えている。裁判所と当事者の共同作業にとって解決点を見つけること、つまり和解と同じような目的意識から裁判を行うことこそ真実発見に近づく道ではないか。

現在の日本の政治は一言でいうなら野合である。個々の政治家には見識や政策観のある者がいるが、結局政局でしか政治が動かないというのは、個々の官僚に優秀な人材がいても結局省益でしか行政が動かないのと酷似している。この原因は日本式人事システムがもはや賞味期限切れになったことを示している。


 具体的にどうすればいいかといえば、消費税・規制緩和・社会保障の規模など主要な対立点について一致する者が政党を作るか、それができないのなら政党政治を廃止して、法案ごとに個人の政治家が自由投票をするシステムが必要であろう。究極的には首相の公選制にもつながる。つまるところ、日本の間接民主主義は機能していないからだ。


 人事システムについていうなら、肩書き重視や後継指名制の廃止が必要で、特定の人に公職が集中するシステム、つまり人脈でしか物事が動かないシステムを変えるべきであろう。人脈主義で仕事をすると、結局は最初の人物の器以上の人物が得られず、仕事もその能力的限界に規定されるからである。企業の人事のあり方が官僚や政治家の人事のあり方の鏡になっており、日本式人事システムのスクラップアンドビルドが望まれる。


 もう一つ日本の政治に古くて暗い陰を落としているのは対米従属である。これを私は平成の鹿鳴館主義と呼んでいる。日本国憲法をはじめとして、戦後米国のお仕着せで成長してきた日本人は米国の傘から出て自立することに躊躇いがあるのであろう。だが、子供に親離れが必要なように日本もアメリカ離れをしなければなるまい。親がいつまでも存命でないようにパックスアメリカーナも永遠に続くわけではないのだから。

昭和40年代から厚労省は医療費削減策を行なってきた。その結果国民医療費は高齢化国家としては世界的に見て低い水準に抑えられている。通常統計にあらわれる国民医療費には健康診断、出産、メガネ、あんま針灸、介護費用、救急車の費用などが含まれていないので、実際には35兆円ではなく、45兆円前後が国際的に見た年間国民医療費の規模であるが、それでも米国と比較すると人口比で半額程度といえる。


 では、国民医療費が低いのは国民が健康なのか、医療水準が低いのか、個別医療費が安いのかといえば、おそらく第三の理由であろう。だからといって、個別医療費を値上げしろというわけではないが、高級ホテルに泊まるほうが病院に入院して濃厚診療を受けるより高いというのも違和感を感じる。たとえば私が留学していた今から30年前でも、すでに米国の平均入院費は一日5万円程度であった。もちろん在院日数も今日のわが国の急性期病棟なみであったが。


 個別医療費については、薬価利ざやの解消と技術料の採用という路線が採用され、現在はペイフォーストラクチャからペイフォーパフォーマンスへの移行が図られている。この路線は基本的には誤りでない。


 さて、厚労省の医療費抑制政策で成功したのは自己負担の割合の増加と、平均在院日数の縛りであった。その結果外来受診の抑制と、社会的入院の排除、患者の流動化を生んだ。昨今はベッドにいろいろな種類(療養、回復期、障害者、特殊疾患等々)があり、患者種別の割合基準などがあるが、これらは医療費抑制策としては成功していないし、適切な医療提供という目的からも成功していないように思われる。というのも総ベッド数が決まっていれば、患者区分の規定は患者区分のかさあげ圧力となって、基準の抜け道ないし弾力応用に走ることになるからである。


 電話帳のように厚い診療点数早見表は、厚労官僚と病院経営者の知恵比べの場となっているといっても過言ではない。そこで忘れられているのは何が適切な入院で、何が適切な治療かという観点である。このもっとも根源的で困難な問題に正面から答えようとしなけれれば、ますます高齢化が進むわが国の医療は困難に瀕するであろう。


 DPCは病名によって診療報酬を包括的に決定するという点で、ある意味上記の設問に対する答えではあるが、すべての診療行為をDPCでおこなえば、必然的に縮小医療の問題は避けられない。


 となれば、根本的には医療者の医療倫理が問われる、つまり、適切な医療とは個々の患者によって異なり、その正しい判断は医療者によるしかないからである。もちろんその前提として適切なガイドライン、特に高齢者医療におけるいわゆる延命治療の基準などが必要である。また医療機関の種類、つまり大学病院、公立病院、専門病院、老人病院などによってその水準は異なる。患者の選択権への適切な制限も必要となろう。英国にように家庭医を関門にするのはわが国にはなじまないであろうが、重複受診や救急車のコンビニ使用なども同根の問題を含んでいる。


 混合医療に対する反対が強いのも、実は国民の間に医療差別を生まないためという観点が強いようだが、本来は医療の提供者に正しい目的意識があれば、自由診療は医療の差別化を生むものではないと考える。医療を経済活動と考えるのは保険診療制度から導き出されたものであり、改めてこの点に関する再検討が必要な時期にきている。


 以上より、保険経済的な医療統制から脱して国民医療の水準を落とさず高齢化社会に対応するためには、医療者の医療水準及び倫理の強化と、消費者たる患者の倫理の構築が必要である。そのようなことが自由主義社会では不可能だという前に、医療倫理の学校教育、医科大学における医療教育の強化を考えるべきであろう。