【今回の記事】
<いじめ すくえぬ声>「解決済み」悲劇招く

【記事の概要】
13年9月28日施行のいじめ防止対策推進法は「施行後3年をめどに必要な措置が講ぜられる」と定め、国は同法の見直し作業に入った。いじめを苦に命を絶つ児童生徒が絶えない中、法は何を変え、何が足りないのか。東北地方の事例から、見直しの視座を考える。
 JR奥羽線北常盤駅構内の線路で8月25日、列車にひかれて死亡した青森市浪岡中2年の女子生徒(13)のスマートフォンに、いじめを苦に自らの命を絶つとするメモが残っていた。市教委は女子生徒側が昨年6月から他の生徒による悪口などを学校に相談していたことを明かし、いじめの存在が濃厚と判断した。今年6月にも同様の相談があったが、女子生徒は教諭に「大丈夫」と答えた学校は相談があるたびに対応したが、いじめとは認知せず、市教委にも報告しなかった
「『いじめは解決した』というサインを信じない」。市教委の成田一二三教育長は9月1日の記者会見で学校現場と自らに言い聞かせるように話し、悲劇を防げなかった無念さをにじませた。
   天童市の中1女子(2014年1月)、仙台市泉区の中1男子(同年9月)、岩手県矢巾町の中2男子(15年7月)の事案では、それぞれ学校が問題の行為をいじめと認識しなかったり、いじめを認識しながら「解決済み」と判断したりした末に自殺を招いた。
 背景には、何をいじめと捉えるかという「いじめの定義」に対する教員の理解の差や、学校現場の困惑が横たわる

【感想】
   まず、岩手県矢巾町の中2男子(15年7月)の事案での、「いじめを認識しながら「解決済み」と判断した」事はもはや論外である。次に、仙台市泉区の中1男子(同年9月)の事案での、「問題の行為をいじめと認識しなかった」事は、いじめの定義に対する理解不足である。
   青森市浪岡中2年の女子生徒(13)の事案での、「女子生徒は(聞き取りの)教諭に「大丈夫」と答えた」ことで「いじめとは認知せず、市教委にも報告しなかった。」ことは、十分に女生徒の気持ちを汲んでいない。女生徒は、「もういじめは無くなりました」とは言っていない。「大丈夫」と答えただけである。この言葉を聞いて、この返事が幾つかの解釈の仕方に分かれることに気がつかない教師は感性が鈍いと言わざるを得ない。「大丈夫」とは、「(先生からのアドバイスはもう)大丈夫」という気丈に振る舞う意味なのかもしれないのである。本来ならその時教師は、「それは、いじめは無くなったという意味ですか?」ということを確認すべきであった。勘ぐり過ぎかもしれないが、「大丈夫」という言葉を聞いて、「よし、言質(げんち 〜「証拠となる言葉」)はもらった。この件は解決だ!」と認識して、嬉々として「解決済み」にチェックをしていたのではなかったか?

   これらの事案の根本にあるのは、記事にもある通り、「何をいじめと捉えるかという「いじめの定義」に対する教員の理解の差や、学校現場の困惑」である。
   いじめの定義とは、「いじめ防止対策推進法(平成25年法律第71号)」によれば、「(定義)
第二条 この法律において「いじめ」とは、児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう。」とされている。つまり、いじめの被害者にあたる児童等が心身の苦痛を感じているかどうかということが、いじめかどうかの分かれ目なのである。いじめに対して誰もがイメージしがちな「繰り返し執拗に」等のような、いじめの頻度については触れられてはいない。記事で1点目に指摘されていた何をいじめと捉えるかという「いじめの定義」に対する教員の理解の差が生まれる背景がここにある。
   更に、ドラえもんの「心のメーター」なるものがない限り、被害者とされる生徒が心身に苦痛を感じているかは、被害者の表情と言葉一つなのである。つまり、ただ一度だけでも、後ろの友達からズックのかかとを踏みつけられただけで、踏みつけられた側が「心身の苦痛」と感じたと認識すれば、それはいじめと判断しないければならないのである。本当にこの定義でいいのか?」これが、記事が2点目に指摘するところの「学校現場の困惑」である。

   一体なぜこのような困惑が現場に生まれるのだろうか?その一つに、いじめの把握の第一段階として用いられる「いじめアンケート」なるものが、各学校に丸投げされていることがある。「いじめアンケート」には、冒頭に、「あなたはいじめにあったことがありますか?ちなみに、いじめとは、…をされることです。」といじめの定義を述べなければならない。そうしないと、回答する生徒自身が判断に困るからである。全国統一のアンケート用紙が作成され、誰もが納得するいじめの定義が掲載されることになれば、少なくとも、先に挙げたいじめの定義に対する理解のズレや、現場の困惑は解消されるのである。
   いじめが増えた減ったと分析し一喜一憂するよりも先に、生徒の実態把握に直接関わる最も大切なアンケート用紙を各学校に丸投げせず、国が責任を持って「全国統一いじめアンケート用紙」を作成することが解決の第一歩であると考える。
   そうでもしない限り、青森市教委の成田一二三教育長の「『いじめは解決した』というサインを信じない」という言葉は、いつまでも消えることはない。