【今回の記事】
150万円巻き上げられ 原発避難生徒にいじめ

【記事の概要】
   東京電力福島第1原発事故で横浜市に自主避難した男子生徒(13)がいじめを受けていた問題で、生徒の代理人が15日、市役所で会見を開き、いじめの内容や生徒の手記を公表した。転校直後から同級生らに悪口を言われたり、蹴られたりするなどのいじめが深刻化。遊興費など計150万円を負担させられ、生徒は「なんかいも死のうとおもった」と心情を吐露した。代理人はいじめの内容を非公表とした市教育委員会側の姿勢や対応の遅さを批判している。
   今回公表した手記は、生徒が昨年7月、ノート3枚に手書きで思いをつづったもの。
「ばいしょう金あるだろと言われむかつくし、ていこうできなかったのもくやしい」「ばいきんあつかいされて、ほうしゃのうだとおもっていつもつらかった。福島の人はいじめられるとおもった。なにもていこうできなかった」「いままでなんかいも死のうとおもった。でも、しんさいでいっぱい死んだからつらいけどぼくはいきるときめた
   代理人によると、生徒は小学2年生だった2011年夏、市立小に転校。直後から名前に菌をつけて呼ばれたり、執拗(しつよう)に追い回されるなどのいじめを受けた後、3年生で約4カ月間不登校になった。再登校後も鉛筆を折られるなどのいじめは続いた5年生になると、「(原発事故の)賠償金をもらっているだろう」などと言われ、みなとみらい21地区のゲームセンターなどで10人程度の遊興費や食事代など1回当たり5万~10万円、計150万円を負担児童2人のエアガンを購入したこともあった。生徒は再び不登校となり、今年3月の卒業まで一度も登校しなかった
   生徒が金銭を負担したことが市教委の第三者委員会でいじめと認定されなかった点について、代理人は「いじめの環境から逃れるために応じざるを得なかった」と主張。その上で「調査開始が遅れ、加害側の聞き取りができないなど踏み込めなかった」との見方を示し、その前提に市教委の対応の遅さを挙げた。
 150万円については「生徒の両親が生活資金として自宅に保管していたもので賠償金ではない。そもそも自主避難なので賠償金は極めて低額だ」と説明した。
   報告書の公表を求める被害生徒側と、否定的な横浜市教育委員会。法解釈を巡っても、意見の相違が鮮明になった。2013年施行のいじめ防止対策推進法は、生命、心身、財産に重大な被害が生じた疑いや、一定期間にわたって欠席を余儀なくされた疑いがあるときに、重大事態として学校側に対処することを求めている被害生徒側の代理人は、不登校が30日を超え、大金の授受が発覚した段階で、学校は重大事態として市教委に報告すべきだったとし、市教委は遅くとも14年6月には第三者委員会を開くべきだったと指摘。放置したのは同法違反に当たり、被害生徒の学習権を1年7カ月も奪ったなどと厳しく批判した。
   また代理人は、被害生徒や保護者が学校への不信感を募らせた原因として、教諭らの対応を挙げた。小3時の不登校や小5時の金銭授受はいじめと無関係と判断し、小4時には「教科書がなくなる」との訴えに対して、副校長らが「本人の管理が悪い」など話したという。被害生徒は手記で「いままでいろんなはなしをしてきたけど(学校は)しんようしてくれなかった」「なんかいもせんせいに言(お)うとするとむしされてた」と吐露した。

【感想】
   どうしても腑に落ちないのは、「生徒が金銭を負担したことが市教委の第三者委員会でいじめと認定されなかった」ということである。加害児童の方から「賠償金をもらっているだろう」と持ちかけ、遊興費や食事代などのための金銭150万円を負担させているのだから、これは明らかに恐喝である。恐喝された方は、明らかに「いじめ防止対策推進法」でいじめとして定義されている「心身の苦痛」を感じているわけであるから、れっきとしたいじめである。加害児童のこの行為を恐喝と捉えないとすれば、一体どんな解釈がなされたのだろうか?親が生活資金として貯めていた大切なお金を被害児童が自分から進んで提供したとでも捉えたのだろうか?あり得ない解釈である。
   また、最も理解に苦しむのは、学校内の対応である。まず、「小3時の不登校や小5時の金銭授受はいじめと無関係と判断」されたとのことであるが、小2の夏の転校直後から名前に菌をつけて呼ばれたり、執拗(しつよう)に追い回された子どもがそのために不登校に陥ることのどこに不自然さを感じるだろうか。明らかに因果関係が認められる状況である。さらに、いじめも何もされていない児童がいきなり遊興費や食事代などのための金銭を要求されるだろうか?何よりも、先に述べたように150万円もの大金を恐喝されたそのこと自体が重大ないじめなのである。
   小4時には「教科書がなくなる」との訴えに対して、副校長らが「本人の管理が悪い」など話したとのことであるが、あったはずの持ち物が無くなったとなれば、当然他の児童による嫌がらせを疑わなければならないところである。しかも、それまでの当該児童の受けていた被害を考えれば、なおさらである。
   最も悲しむべきことは、当該児童が教師に対して、「いままでいろんなはなしをしてきたけど(学校は)しんようしてくれなかった」「なんかいもせんせいに言(お)うとするとむしされてた」と教師に対する信頼感を失わせてしまったことである。学校という空間においては、教師は、保護者に変わる「安全基地」とならなければならないはずである。これを裏切った教師の罪は余りにも大きすぎた。

   彼が今不登校で済み、生きていられるのは、「しんさいでいっぱい死んだからつらいけどぼくはいきるときめた」という震災で亡くなった方の命の大切さを感じているからである。それに比べ、この学校の大人達は子どもの命の大切さをどれだけ自覚しているだろうか?