これまで、米国のネット上の情報に頼ってきたが、Mineruの情報が前記の1917年徴兵カードで途切れた。日本国内で収録されている書籍を調べてみると下記の情報に巡り会えた。Mineruではなく「Minoru」であることが判明した。

 

「日系移民人名辞典《北米編》」1922 年日米新聞社発行 
(国会図書館や約20の県立図書館に所蔵されている。)
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002232521-00

 

(200頁)
本田 實(Minoru)
熊本県上益城郡龍野村
(現在、熊本県上益城郡甲佐町竜野)
米住所
P.O. Box 117 Walnut Grove Cal.(英文Wikiのマイクの出生地と同じ)
明治21年(1888年)生、明治34年(1901年)渡米、研學の傍ら数年労働後ち各地に農園経営現地にて200エーカーアスパラガス園耕作、妻フサ、義一、龍雄、龍子

 

 生年は1年異なるが、渡米年、妻のフサ(1930年国勢調査Tusa)、子の「義一」はほぼ一致。1917年にカリフォルニア(CA)のYolo郡East Woodlandに住み雇用され農業に従事。1921年、CAのWalnut Groveに住み200エーカーの農地でアスパラガス栽培。1930年、CAのSolano郡Rio Vistaに住み野菜を栽培。いずれの住居もサクラメント市の西南の郊外数10kmの地域である。妻のフサは1892年生で1913年渡米し、息子・義一を1914年に生んでいる。

 

マイクの祖父・實(Minoru)は、12歳の1901年に、一人で移民したのか?

 

 1890年前後より、1900年代初期まで、多くの日本人書生(15歳から25歳)がカリフォルニアに下宿していた。彼らは語学習得や教育を受けるため渡米していたが、多くは勉学・生活資金を得るため住み込みで働いていた。12歳の本田實が一人で渡米するには、何らかの手立てで書生として米国に入国した可能性も考えられる。(高橋是清が渡米したのは13歳の時)

 

 日本側の記録では、海外旅券下付記録が外務省に保存されているはず。本田實の旅券発給記録があれば、渡米の経緯が分かる。そこで、その記録を入手してみると下記の結果が判明した。

 

 熊本県上益城郡龍野村の41歳の父・順太郎と12歳10ヶ月の長男・實は、明治34年(1901年)8月に旅券を公布されていた。渡航先はシアトル、目的は湯屋業(風呂屋)開業。

 

 實の記録は残っているものの、米側のデーターベースに順太郎の記録は見当たらない。渡米中或いは渡米後何らかの経緯があり、順太郎は記録されていないことになる。もしかしたら、順太郎が命を落として實が一人になったことも考えられる。人名辞典に書かれている「研學の傍ら数年労働後ち」というのがそれを物語っているのだろう。なお、龍野村は甲佐町に合併されているので、第一次世界大戦の徴兵カード記載の「Kosa」も同じ場所である。

 

旅券番号 1457号
氏名 本田 順太郎
族稱 平民
身分 戸主
本籍地 熊本県上益城郡龍野村1416
年齢 41年
旅行地名 北米合衆国シアートル
旅行目的 湯屋業
下付月日 明治34年(1901年)8月28日

旅券番号 1457号

 

氏名 長男 本田 實
族稱 平民
身分 非戸主
本籍地 熊本県上益城郡龍野村1416
年齢 12年10ヶ月
旅行地名 北米合衆国シアートル
旅行目的 湯屋業
下付月日 明治34年(1901年)8月28日

旅券番号 1457号

マイク・ホンダの家系図とまとめ
(出身地)熊本県上益城郡龍野村(現在甲佐町)

本田順太郎(1860年生、1901年渡米?)曾祖父
  ↓長男
  本田實(1889年生、1901年渡米)祖父
  本田フサ(1892年生、1913年渡米)祖母
     ↓長男                                  
    本田義一(1914年生CA)父、他2名 
    本田フサコ(1916年生CA)母
       ↓長男
      本田実(1941年生CA、マイケル・マコト・ホンダ)他2名

 

 ホンダ家の曾祖父の順太郎が祖父の實を連れて渡米しようとするのだが、シアトルで風呂屋を開設する動機は分からない。西欧のキリスト教国では、日本の銭湯のような共同浴場がないのが一般的である。当時としては、湯屋或いは風呂屋(銭湯)があるのは、日本だけで、朝鮮半島にもなかった。(1910年日韓併合後、日本式共同浴場を半島に持ち込むのだが、1901年にはそのサービスがなかった。)

 

 渡米した日本人移民を待っていたのは、排日運動で、CAでは、1913年の排日土地法で日本人の土地所有を禁止し借地権も3年に制限し、1920年には日系人の借地権まで剥奪する土地法を施行、1924年には連邦政府が絶対的排日移民法を制定し、日本からの移民が停止した。そして、日米開戦により、ルーズベルト(FDR)は1942年から日系人の財産を没収し収容所に日系人を隔離した。名誉を回復するのは、収容所から志願して欧州で戦った第442連隊戦闘団の熾烈な戦いの後だった。

 

 このような過酷な歴史があり、ホンダ家も成功に及ばなかった。(マイクの父は郵便局員、母親は掃除婦)マイク・ホンダは、その屈辱的な歴史と生活のなかで、戦争による被害を求償する運動が事業になることをSWCの活動から学んだのではないかと思われる。本部をロサンゼルスに置くSWC、マイク・ホンダの選挙区に本部を置く中華系のGA(世界抗日戦争史実維護連合会)、コリアン団体と彼の支援団体はカリフォルニアに集中している。


 マイク・ホンダ前下院議員のルーツは、熊本出身の日本人であることが確実であり、朝鮮人説の記録は見当たらない。なお、Makoto(実)は祖父Minoru(實)の名をミドルネームに取り入れたと理解すれば、血縁関係を表している証拠にもなる。(終)