2006年9月16日札幌市で行われた神田橋條治先生の講演録です。


「PTSDの治療 ①」  の続き


PTSDの治療において僕が依拠している枠組みは、中井久夫先生がお訳しになった、ハーマンさんの『心的外傷と回復』です。あれが、治療上、一番役に立つと思います。ハーマンさんの本は非常にいっぱい書いてありますから読みにくいですが、簡単にいいますと、PTSDの人の治療はまず、安全な、「安心できる今」をつくってあげる。そのためには主として環境でしょう。環境として、その人が「安心できる今」をつくってあげる。「今」というのはここに現実としてありますから確かな環境です。その次には、この安心できる環境から PTSDという体験を眺めて、それに対する意味づけとか納得とか何かをしていく。「今」を直接にゆさぶらなくなったこの体験は自分を圧倒するものではないので、自分の懐にこの体験を入れ込んでしまう。自分の人生史の中に組み込むことによって、外傷体験は歴史上の出来事として定着される。それがハーマンさんの治療の骨子であります。それに沿って治療をやっています。


ここで精神分析のお話をちょっとします。それは、精神分析が役に立つという話では全然ないのです。皆さんが、私の話を聞いて理解してくださるための理論の枠組みとして精神分析の話をします。


忘れられた記憶というのがあります。忘れられた記憶は、抑圧された記憶。そいつをもう一度わざわざ引っ張り出して、あれはこうだったとか、今から考えたら思いすぎだったとか何かやって、そしてもう一度、意識された自分の歴史の中に組み込むわけです。組み込むと、それで治療が終わる。なぜ治療が終わるかというと、僕の今のPTSDの観点からの理解でいいますと、一生懸命忘れてしまう、思い出さないようにしてしまうという行為は1つの記憶の領域における回避ですから、その記憶が再生してくる契機になるようなさまざまな活動場面をもまとめて回避します。そうしないと、また思い出すかもしれない。だから回避する。そうすると、自分の精神的な資質や与えられた幸運で仕事のチャンスがあったりしても、それを回避するから生活が狭くなっていく。狭くなっていくことから、内に歪みが生じる。そこで治療者が支えながら、「そんなに忘れなくてもいいじゃないの。思い出しましょうよ」といって記憶が思い出されて歴史の中に位置づけられる。そこで、今まで回避されていたさまざまな能力も状況も、あまり不安なく直面できることになって、精神生活ひいては行動範囲が広がってくるというのが、記憶の面から考えたときの精神分析の治療であると思います。


じゃあ、精神分析をしてはいけない人はどういう人か。これは昔からいわれています。忘れてしまう能力がない人。何でもかんでも思い出すような人は、精神分析をしてはいけないのです。そういう人は治療が終わった後、帰りに自殺したり、何をするかわからないから。だから、精神分析の中であたかも悪いことのようにいわれている抑圧とか、回避とか、サリブァン流にいえば「意図的な盲点」というものは、少なくとも過去のその時点における有効なコーピングであったわけです。そのコーピングでやってきた、何とかそこを過ぎてきたけれども、しかし、そのために随分と生活が不自由になっているから、もうぼつぼつそのコーピングはいらないんじゃないのということであって、まだ必要な人にコーピングをやめさせたらしっちゃかめっちゃかになるわけです。だから、精神分析がやっていることは、その人の人生において時代遅れになった、もういらなくなっているコーピングの構えがいまだに続いているせいで人生が貧困になっていることの、その部分を解消することであるわけです。それはあとでPTSDのお話に絡めて申しますから、精神分析全体をある特定の角度から照らしてお話ししているのです。


その観点に立ちますと、最近、腹立たしいのは、池田小学校でも長崎でもそうですが、何か事件が起こるといろんなチームを作って、外傷体験がどのぐらい子どもたちに影響を与えているかを、行って調べるんです。「夢を見ますか」とか、「やっぱり思いだしたら気分が悪いですか」と。あれはほとんど犯罪だと僕は思います。記憶が定着していつでも思い出せるようにするために勉強の復習というのがありますね。予習復習の復習。復習は、記憶をいつでも思い出せるように、忘れないようにするわけです。さっきの僕の話でいうと、「そのうち時間とともに忘れるよ」「そのうち過ぎていくよ」ということをさせないように、「思い出すでしょう?思いだしたらドキドキしますか?」「どんなふうに記憶に出ますか」といって復習させれば忘れられないようになって、それはPTSDをつくる作業だと僕は思うんです。ああいうのは検査しないで早く忘れてしまうようにする。その子どもたちは自分のそういう場面を避けたりして生活が狭まっていますから、もう少し時間がたって20歳とかになって、自分の生活力、精神的な力が増えたときにもう一度、忘れていたものを引っ張り出して精神分析をする時期が来る。今したら、血が出ているのに「痛いね」とか言ってなでたりするような実にけしからん治療というか、行いだと思って、あちこちで、「あれは悪魔の所業だ」といっていますが、どうでしょうね。


今話したことの中にPTSDの治療の骨子が全部あります。つまり記憶は、こっちが「よし、記憶を思い出してみようか」といって、治療者との間に安心できる間柄の雰囲気ができて、「勇気を出してひとつ共同作業で思い出してみましょうか」とやってるのではないのに、パンパン記憶がよみがえってきたらどうにもならない。それではとても日常が安定するはずがないです。これがフラッシュバックです。


(つづく)








◎ この一連の記事はすべて神田橋先生の了承を得て載せています。