泣きっ面に蜂。風邪を引きました。
しかし、落ち切ったら浮上するのみ!
心を浄化すべく、先月の美しき日々の記憶など。
お付き合いいただけますと幸いです^ ^
※本記事からコメ欄閉じてますm(__)m(繁忙期につき)
前に頂いたコメも、一時的に表示されなくなりますm(__)m

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先月の28日、私の外来診察の後に鈴木理策展に行きました。
もう半月以上前なんですね。早い!

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インタビュー

僕が「こう見た」ということより、世界が「こうあった」というのを撮りたい。』


写真展の趣旨は、このフレーズに凝縮されていると思います。

もしかしたら、見る人が見れば、何この写真?ということになるかも。
あるいは、ただのきれいな風景写真だね、とも。

私たちが日常生活を送る中で、
自分の主観を手放して物を見ることができる時間が、どれほどあるか?


歳をとればとるほど、経験によって情報の取捨選択は上手くなるかもしれない。

そのことが生きやすくしているかもしれないし、
また、生きづらくしているかもしれない。

無になりたい。

(意識の)透明感ある人になりたい。

色眼鏡フリーになりたい。

創作物は特に、良くも悪くも創作者のエゴを押し付けられるわけで(笑)
がん術後は、とりわけそういうのから遠ざかりたくなりましたね。

多分、死ぬこと=一個の生を完結させることって、
自我に色を塗り重ねていった結果、無色になる、みたいなことだと思うから。

死はものすごく曲がりくねった、無という存在だから。

その曲がりくねり方が、美しい螺旋だと良いね!
そして、多分、私の知る限りでは
がんブロガーさんたちは、その螺旋を皆さん美しく構築されているね。

あるがままに受け取るという訓練を日常的に行っているからかしらね。

だから、私がこの鈴木理策さんの写真に惹かれる理由も、
よく分かってくださる気がする。みんな。

いくつか、書きとどめておきたい鈴木さんのフレーズを写真に撮っておいたよ。
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上のフレーズについて。
『風景とそれを映す水面、両者は写真の中では同じものとしてある。』

無心に景色を映し出す水面のような存在でありたし。

・・・

この写真展から翌々日の8/30に
樋野興夫先生が主催されている、がん哲学外来(in 大久保・淀橋教会)に行ってきました。

印象に残った言葉を少し(また改めてうpします)。

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樋野先生の15分程度のお話の後に、個人面談。

その日の面談者がいないということで、急遽お願いしてきました。

3か月前、5月の終わりに家族三人で面談してもらった時も
「私はそんなに相談することないから(笑)、深刻なお悩みを抱えている人にどうぞ」と譲ったのですが
むしろ、主催者の方から、どうぞ、どうぞと強く勧められ、厚かましく談笑してきました。。

8月末の面談では
「その時(5月)の面談が一つのきっかけとなって
明後日、母は手術をすることになりました。」という報告をしました。

そこで、
樋野先生がご存じの耳下腺がんの患者さんで顔面麻痺がひどくなってない方がいる
というお話を伺いました。
(場所と大きさによるだろう、という留保付きでしたが。)

これを聞いた瞬間、うちの母も大丈夫かも!!と思えました。
樋野先生、ありがとう。


さて、最初の15分程度のお話の中で印象に残ったお言葉(要約です)。

吉田富三曰く、
真実はいつも清く美しい。
人間の中に隠された深層は、いつも汚れて醜い。
それを追求するのは、涙の井戸を汲み上げること。しなくてよいこと。

空っぽの器になってね。
器は空っぽがいいよ。
泉から湧き出る水が入れられるよ。

川の本流は足でまたげるくらいの大きさ。
支流は船で渡るから疲れる。

本流の水が自分の器に入れられるような人間になってくださいよ。

鈴木理策さんが撮る写真のように、無になって世界を見ること。

私たち誰もが、病気であろうとなかろうと
大した時間を持っていない。

だからこそ、本当に価値ある、純度の高い、真水のような真理と常に向き合っていなければ

ですね。



◾︎鈴木理策写真展 意識の流れ at 東京オペラシティアートギャラリー(9/23まで)