aihamalteseのブログ

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愛犬の名は「あい(♀)」、犬種はマルチーズ、2010/4/18生

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 8月終わりのある日、メディアのインタビュー取材を受けた。

今年は1月、3月にも月刊誌と週刊誌2社の取材を受けていたが、やはり10年という時間の区切りなのだと再認識する。もう10年も経ったのだ・・・

 

 同行取材ではなかったので手ぶらではお話しできないと思いそれなりに準備した。ほとんどのことは今春にまとめた「飯舘村でのイヌとネコのレスキュー」に記述してあるので、それを基にして思いつくままのことを文字に起こして対応させてもらった。順不同に、あれこれと、おまけに自身の略歴までお話ししたのだった。

 

 

*2011年3月震災直後から被災者への医療・生活などの支援をしていたが、2012年2月ネットで原発事故により置き去りにされている動物の窮状とボランティア活動のことを知り、書籍などで情報を集めて現実を知り、次に現地を訪問、シェルターでの手伝いの経験などをして、飯舘村での救援活動をすることを決意した。置き去りにされた動物のことを1年間も全く知らなかったことに大変ショックを受けた。ネットで知り合った静岡の動物ボランティア「あいちゃん」から情報を得て、4月から訪問するようになった。神戸から新幹線、福島でレンタカーの2泊3日の活動を月に1~3回行っていたが、それでは間尺に合わないため、7月に移住を決め8月末に引っ越し、9月から連日飯舘村に通うことになった。

 <2012年3月時点で目にした参考書籍>

 「ゴン太ごめんね、もう大丈夫だよ!」山路徹と救出チーム編 光文社発行

 「のこされた動物たち」「待ち続ける動物たち」太田康介著 飛鳥新社

 

 

 

*飯舘村は、私が目にした原発20km圏内(浪江町・富岡町・双葉町・大熊町等浜通りの街)の書籍の内容とはずいぶん違っていた。村全体が計画的避難区域だったので、全村の避難は7月まで計画的になされた。そのために動物の避難もある程度準備ができた部分もあり、また村への出入りが規制されなかったので「自由」に帰宅(宿泊は禁止)出来たこともあり、動物が餓死することは稀だったと思われる。しかし厳しい避難生活のもと帰宅もままならず人の消えた村に置いていかれた動物たちの状況は避難者以上に厳しいものであったと思われ、給餌ボランティアが必要とされた。できる人ができる時にできる事をするボランティア活動、出会ったのは飯舘村だけでも60名以上になった。

 

 

*被災地では、犬猫を置いて避難したことで、住民は「家族」を見捨ててきたと胸に傷を残している。犬猫のレスキュー活動は、犬猫の救済に役立つと共に飼い主のその傷を少しでも癒し、安心して再起に向かえるように出来る事をお手伝いすることだ。飯舘村に通っていて強く感じたのは、農家にとってのイヌやネコは、田畑や作物を守る農業などの「担い手」であり大切な家族と云うことだった。皆大切にされていたことだろう。

 

 

*災害時の「同行避難」は、まず意識として持ち、離さないことだ。環境省も2013年に「災害時におけるペットの救護対策ガイドライン」を出して推奨している。しかし自治体によって、災害の規模によって受け入れは様々であり、自らできることは準備しておくことが大事、例えば「しつけ」であり「予防注射」であり「非常用食料」の備蓄などがある。とは言え一方では飯舘村住民の避難先の仮設住宅では、イヌとネコを飼うことは禁止されていた。同じ被災自治体でも許可されていたところもあり、同行避難もまだまだこれからだと言ったところだ。

 さらに言えば、災害時のペット保護は、ボランティア任せが現実である。そろそろ日本でも公的機関の出番があってもいいのではないかと思う。それが「先進国」では当たり前になっている。イヌとネコの置かれている状況は、そのまま被災者の状況の反映だ。被災者の状況の改善なくしてペットの状況は良くならない。政治が大切なゆえんだ。

 

 

*「原発」には否定的だったが、意識的には安全神話に影響されていたことは否めない。事故による放射能によって突然避難生活を余儀なくされ、関連死も相次いでいる福島を見て、原発社会を作ってきた世代としての贖罪の感もあり福島を支援しようと移住を決断した。

阪神大震災での九死に一生の体験がきっかけで「いつかできるでは結局いつまでたっても行動しない。今しかできないことは今しよう」との妻の意識が後押しした。

 

 

 

*全戸訪問での発見・ボランティア間の情報交換・見守り隊からの情報などで知り得た訪問対象は、最大時200か所以上、イヌ204匹・ネコ390匹をリスト化して、私はそのうち一日20~30件の訪問をした。2015年5月では、ボランティアは25組が入り、その訪問延べ回数は1110回/月、訪問実件数175件/月を数え、この月が今日までの訪問の最大記録となっている。その時のリスト登録箇所232か所、犬114軒190匹、ネコ169か所361匹だった。

 そこでのボランティアは、餌と水を準備・補給、餌場環境整備をして、必要なら健康チェック・TNR・保護、イヌは散歩などをした。動物病院への搬送もあった。首都圏からのボランティアが多かったが、夜通しの長距離運転だった。郡山からではあったが私の走行距離は170~200㎞/日に及び、福島に移住後の2012/9~2019/8の7年間の累積は28万㎞となった。

 私が記録していた猫のTNRは487匹(2012/9~2019/7)、保護数は415匹(2014/1~2019/7)、残念ながらイヌの不妊化手術件数、保護数についての記録はなく不明である。しかし二桁は数えたと思われる。毎日の訪問行動を記録していたブログは2012/9~2019/8の期間に1580回になった。また毎月の訪問活動をまとめた「月報」は、2013年8月から2019年8月を最後に74か月となった。

 参考:私のameblo https://ameblo.jp/t-hibidas/

イヌとネコの食料代、医療費、交通費などの活動費用もボランティアの負担であった。人により支援を呼び掛け活動の継続につなげていた。

 

 

*全村避難後の村は、人影が無く人と出会うのは稀であり、車とすれ違うこともなく静寂に包まれたゴーストタウンだった。まだ除染作業も本格的に始まらず作業員も姿なく、出会うのはパトカーなど警察車両だけ、移住当初は神戸ナンバーだったので必ずと言ってよいほど免許提示と職務質問を受けた。その多くは他県からの若い支援警官だった。         他に出会えたのは、イヌ・ネコの情報をもたらせてくれた村の巡回「見守り隊」のご婦人たちと一時帰宅中の住民だった。

 しかし、2012年後半から除染作業が徐々に活発になり、除染作業員・作業車の往来が多くなり、それが除染終了の2016年末まで続いた。後には放射能に汚染された除染廃棄物が入ったフレコンバッグの山が村のいたる所に残された。

 

 

 

*ボランティアの状況は、福島では放射能汚染のため、公的な受け入れ窓口はなく、動物愛護団体やボランティアの自主的な活動に任されている、と云うか放置されているのが実情だ(一部獣医師会などの公的組織との保護活動があったと聞く)。

 原発20km圏内では、2011年4月22日から立ち入りが禁止され封鎖された。ボランティアだけでなく住民も自宅に近づけなくなった。それまで動物特にイヌ・ネコのレスキュー活動をしていた多くのボランティアは締め出され、動物は厳しい状態に置かれた。命をつないだのは、それでも住民の協力を得て圏内に入り、イヌ・ネコのエサを補給していた一部のボランティアたちの存在だった。しかし動物の多くは餓死した・・・

 

 一方飯舘村は、2011年7月に全村避難が終了、同行避難や一時預かりなどできなくておいて行かざるを得なかった動物たちの存在があり、ボランティアの出番となったと思われる。

私が参加したのは2012年4月からなので、それ以前の約1年間の状況は全く知らないが、最初は20km圏内から締め出されたメンバーが、飯舘村に活動のフィールドを移したのではないだろうか。現に飯舘村で知り合ったボランティアの少なくない人が20km圏内の経験者だった。

 

 私がボランティア活動を始めた2012年4月には、すでに数組のボランティアが活動していた。しかし相互の横のつながりや連携などは乏しく、それぞれが把握しているイヌ・ネコのいるお宅を訪問して活動していた。その情報の共有なども積極的になされていたとは言えなかった。

 2012年9月から毎日のように飯舘村に入るようになり、必然的にボランティアと出会う機会も増え、情報交換や共同行動の機会も増えた。毎日のブログとともにそれらを集約して発信、ボランティア共有の情報とすることにした。それだけでなく新たな参加者への「手引き」にも成りうるものとして活用した。また、福島の借家をボランティアに開放、二組

4人まで宿泊できるようにして、交流の場所としても活用した。

 

 2017年3月末には一部地域(帰還困難区域)を除いて避難指示が解除されたが、4年以上経過した現在でも村に帰還したのは高齢者中心に約25%・1500人に止まっている。被災イヌ・ネコは少なくなりボランティアも少なくなったが、活動は引き続き継続されている。

 

 

*私の記憶に残る風景

 ①小宮のチビとレオのものがたり

  映像作家の早川氏のブログが詳しい。→「早川氏」

  私はブログ「飯舘村訪問日記」に。

 ②ゴエモンと山木屋のネコ

  私のブログ「保護ネコゴエモンのこと 2020/08/22」

   「まいどなニュース」にもアップされている。

 ③エサ場に現れる猫たち、とくに親子猫たち

  シロネコ銀座の仔猫たち・草野多頭飼育の仔猫たちなど。

 ④大倉地区のイヌたちの変遷

 ⑤野生動物との遭遇 キツネ・タヌキ・イノシシ・サル・カモシカ・

  ハクビシン・アライグマ・ウサギ・アナグマ・テンなど

 ⑥2014/2(飯舘村が孤立)の大雪の中の給餌活動

 ⑦底の抜けた犬小屋と新たな小屋の設置活動

 ⑧村中に積まれたフレコンバッグの山・除染作業・解体作業

 ⑨飼い主の帰りを待つイヌたち

 ⑩TNR活動でのリターン時の猫たちの姿

 

 

(追記)

 総括的には先日の拙文「飯舘村でのイヌとネコのレスキュー」が一番参考になると思います。最下段に再度添付しましたが、スマホではダメでパソコンでしか開けないようです。ご希望の方にはファイルを送付します。また、重複しますが私のブログのうち「飯舘村訪問日記あとがき2019/08/26」や「飯舘村のボランティア活動2019/12/01」にも記述あります。

 

 

(略歴)

 1945年2月4人姉兄の二男として生まれる。

 中学3年秋:伊勢湾台風の被害で両親がやっていた薬局と住居を失う。当時は岐阜県羽島郡柳津町という岐阜市の南、濃尾平野の真ん中の田舎町に居住していた。やむなく中3の二学期に岐阜市内に転校、つらい経験をした。高校卒業まで岐阜市内に、その後は進学の為金沢に4年間居住。

 

 卒業後は製薬メーカーに1年間勤務、その後は神戸市内の医療機関に60歳定年まで勤務、その後の年金生活に続く。一貫して神戸に居住していた。

 

 薬剤師としての仕事は30代まで、その後は病院や薬局のマネージメントに従事した。病院の事務局長をしていた50歳の時に阪神大震災に遭遇、神戸市内でも一番被害の大きかった長田区にあった病院は、倒壊は免れ一部損壊の被害ですんだ。自宅も同様だった。復旧活動とともに被災者の救援活動に全国からの支援を受けて取り組んだ。医師・看護師など多くの医療従事者の支援を受けた。後にボランティア元年と云われる。

 

 年金生活の毎日だったが、妻が現役看護師で東日本大震災の被災者支援に参加していたので、時々参加していた。しかし2012年春に原発事故のため人の居なくなった街に残されているイヌ・ネコの実情を知ることになり支援活動を始め、2012年8月末福島に移住、2019年までの7年間ボランティア活動に励んだ。

 

 現在:神戸市西区にて妻と愛犬1・保護猫6の9命で生活している

 (写真は我が家のイヌとネコたちです)

 

                              年の離れた妻と   2019年8月蔵王にて                       

 

 

 

 

「飯舘村でのイヌとネコのレスキュー」

  → パソコンでなら開くことが出来ると思います。